女は自らを罰し、痛めつける
デンマーク出身のラース・ファン・トリアーという映画監督は、何かとお騒がせな人物で、本人の過去や経歴を詳しく説明すると長くなってしまうのでここでは割愛するが、監督の一番の特徴は、見るものの神経を逆撫でするような不愉快極まりない作品ばかりを撮るというところだろう。彼の作品の中では常に女性が酷い扱いを受ける。ただ生きているだけなのに、裏切られたり殴られたりレイプされたり処刑されたり。なので、一部のフェミニストや良識的な人々から、非難の的になることも度々ある。今作でもVol.2でのジョーは、もちろん散々な目に遭い、観賞後は凄まじい後味の悪さだ。
確かに、ここまで女性を傷つけ、痛めつけ、追いつめることは、けしからんことのように思えるかもしれない。が、しかしである。世の中の99.9%の諸悪の根源である男性(映画監督)が、女性を幸福に描くことなんて、もしかしたら最高に傲慢で勘違いも甚だしいことなんじゃないだろうか? そんなものは男の妄想と夢物語にしか過ぎず、男性監督が女性の物語を撮ろうとする際、不幸に描くことだけが唯一現実的で正しい姿勢なんじゃないだろうか? それを正直に認め、熱心に女を苛め尽くすトリアー監督は、ある意味ものすごく謙虚な人間だ、と言えるのかもしれない。
なので、今作で主人公が自傷行為に走り出すのは至極当然な展開だろう。トリアー監督の映画の中では最早男の手を借りなくても女は自ら痛めつけられることを選び、苦しむ姿を、観客に見せつけるのだ。それがわたしたち(女性)の本来の姿だと言うように(色情狂の主人公は自分の欲望のために子どもや夫まで犠牲にする最低の人間だが、そこにも、母性への幻想なんて一切抱かない監督の正しさが感じられる)。愛する人とのセックスに快楽を得られるなんて幸福が、あるわけないのだ。
映画のラスト、Vol.1のコミカルな雰囲気からは程遠く、ジョーはとことん不幸なビッチに成り下がる。冒頭から負傷していた理由、そしてそれを優しく介抱してくれたおじいちゃんの行動(彼は一見ジョーの味方のようだが、もちろんそんなことは嘘っぱちであり、男は女を傷つける)、何もそこまでと言いたくなる最低なオチに、ああ、やっぱりこの監督は謙虚で真面目な方なんだなあと、安心すら覚えるのだ。彼女は色情狂だから不幸になったわけでなく、女としてただ生きているから不幸なのだ。
なんて、物々しいことを考えなくても、なかなか愉快なビッチ映画として軽く楽しめる映画ではあった。1と2あわせて四時間近くある大作だが、長さはたいして気にならない。登場人物を見ながら、ああ、こんな男とのセックスはいやだなとか、こんなプレイは面白そうだなとか思ったり。女性が堂々と他人のセックスを見られる、オシャレなヨーロッパ映画としてオススメであり、ゲンズブールに憧れる元オリーブ少女も是非。
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