過去の名作から話題の映画まで、映画の中で描かれるジェンダー観について考える連載の第二回は、チャニング・テイタム主演の『マジック・マイクXXL』について書きたいと思います。このコラムを書くために、前作の『マジック・マイク』を見たのですが、二作は、同じ男性ストリッパーの世界を舞台にしながらも、テーマがまったく違うものになっています。
男のアイデンティティと、女のアイデンティティ以前
2012年にアメリカで、2013年に日本で公開された『マジック・マイク』(以下『無印』)は、ストリッパーであるマイク(チャニング・テイタム)と19歳のアダム(アレックス・ペティファー)が建設業の現場で出会ったことから始まります。建築業を一日でクビになってしまったアダムはマイクのはからいでストリップの道を歩むことになり、マイクはアダムの姉のブルック(コディ・ホーン)と知り合い、徐々に惹かれ始めます。もともと手作りの家具をビジネスにしたいという夢を持っていたマイクは、ダラスとブルックという姉弟と出会ったことで、ストリップの道と経営者になるという夢の狭間で揺れ始め……という物語です。この話は、チャニング・テイタムの実話がもとになっていて、彼は脚本にも名を連ねています。
2015年に公開されたその続編『マジック・マイクXXL』(以下『XXL』)では、ストリップを引退し、晴れて夢であった家具のビジネスで独立したマイクの元が、かつてのストリッパー仲間たちと再会するところから始まります。仲間たちもまたストリッパーを辞め、新たな道を歩み始めようとしているのですが、最後のパフォーマンスのために、年に一度のストリップの大会に出場しようとマイクを誘います。マイクは一度この誘いを断るものの、かつて自分がダンスの際に使用していた音楽がラジオで流れた時、当時の記憶が蘇り考えを改めます。こうして、フロリダ州タンパから大会の行われるサウスカロライナ州マートル・ビーチまで、仲間たちとオンボロ車で旅をすることに決めるのでした。
大まかにあらすじを説明すると、こんな感じなのですが、何が違うって、『無印』では、男のアイデンティティがテーマであるのに対して、『XXL』は、女のアイデンティティ以前の問題、「女だって女同士で傷をなめ合ったり、男によって癒されたりしたいけど、そうしてもいいのか?」という話になっているところだと思うのです。
女性だって男性の美しさを称賛したっていい
『無印』で、どのように男のアイデンティティ問題を描いているかというと、マイクはストリッパーをやっていることを、自分の本位ではないと思っている様子がたびたび描写されています。だからこそ、ストリッパーを辞めて家具ビジネスをやろうと銀行に融資の話をしに行く。しかしマイクは、融資を断られてしまいます。ダンスをしている最中に女性客が自分の下着にはさみこむ1ドル札を何枚貯めようとも、銀行からは信用とはみなされないからです。この後のシーンで、くしゃくしゃになったお札をテーブルの角で一枚一枚鞣し、それを重ね、重しをおいて平らな元の1ドル札にしようとするシーンは、ストリッパーという職業に向けられた世間の目線を浮彫にしていました。
『無印』は、「男にとって信用とは、仕事とは何か」ということを感じさせる作品になっています。それは、ひそかに思いを寄せていたブルックと心が通じ合うとき、マイクはストリッパーを辞めている、ということでもこのテーマを明らかにしていると思うのです。
一方『XXL』では、「男にとって信用とは、仕事とは何か」ということを意識しながらも、自分がその魅力に取りつかれてしまったストリップの世界にも、なんらかのアイデンティティがあるのではないかということが描かれます。彼らはそんな『青春』をもう一度味わいたいのかもしれません。それと同時に、ストリップを見に来る女性たちにも焦点をあてているのです。
この点において、ショウビズの世界を応援している観客であるアイドルオタクの女性たちにも、ぐっとくる作品になっていると思います。そしてとにかく、女性たちの描かれ方が優しい……。この映画には、ブスもババアもいません。いるのは、みな同じ女性なのです。女性が男性の美しさにうっとりとすることは、何も恥ずかしい事ではなく、男性にバカにされることでもないことがきちんと描かれています。
こうした、女性にとっての「都合の良さ」ばかりがフィーチャーされると、「お花畑」と揶揄されそうですが、この映画を見ている間だけは、それは「お花畑」ではなく、普通にあって当然のことではないか? 男性が女性の美しさ(そこにはエロチシズムも含まれます)を称賛し、称賛された女性がそれを自然に受け止める世界が許されているのに、なぜ同じことが逆の立場では実現しないのだろう。この映画でそんな逆転した立場が実現されただけで、後ろめたくならなくてはいけないのだろう? という非対称さを感じずにはいられないのです。
もちろん、女性のための「おとぎ話」は現代にもたくさんあります。例えば、漫画原作のラブコメディなどは、女の子にとって都合の良い世界です。ただし、夢物語にうっとりできるのは、選ばれしヒロインとそこに自己投影できる女性だけ。それ以外の登場人物はライバルになる。しかも、ヒロインとはいえ、ツンデレな王子に支配されたり、王子にとっての一番になるために、「過剰適応」したりしないといけないもののほうが多いでしょう。
ところが、『XXL』では、そんな必要はありません。この映画に出てくる女性は、誰もが「クイーン」で、ストリッパーたちは「キング」。観客とパフォーマーが対等だからこそ、見終わった後もずっと気持ちの良い映画になっているのです。
お互いにリスペクトがあるから罪悪感を持たなくていい
『無印』と『XXL』では、通低に流れるテーマが、厳密には違っているように感じました。
それは、『無印』で、アダムが、ストリッパーたちのリーダーであるダラス(マシュー・マコノヒー)からダンスを教わるシーンに現れています。ダラスはアダムに「見せつけろ、女たちを支配するんだ。夢見る理想の男を演じろ。男のモノで支配しろ」と言ってダンスの魅力を伝えるのです。
ところが、『XXL』では、ストリッパーたちは、「男のモノで女を支配しよう」とはしていません。むしろ、「女の称賛があるから、自分の喜びがある」というところにまで意識がいっているように感じました。パフォーマンスする側が、ここまで本気で観客をリスペクトしていたら、観客もパフォーマーを性的に消費するのではなく、敬意をもってパフォーマンスを楽しむということができるのかということにも気づかされました。
私は時々、アイドルのパフォーマンスを「私たちのために、無理してサービスをしているのではないだろうか、何かほかの目的をまっとうするための手段としてのパフォーマンスやサービスをしているのではないだろうか」という目で見てしまうことがあります。
でも、『XXL』のマイクたちは、自分がやりたい仕事――例えばマイクだったら家具のビジネス、アダム・ロドリゲス演じるティトだったらヨーグルト販売というもの――は存在しているけれど、ストリッパーをやめて別のビジネスにチェンジしようとする前作とは違い、ストリップと同じ価値の仕事として存在しています。何かを達成するために、何かは我慢してやるというのではなく、自分の前にある仕事は、自分がプライドを持ってやることで、どんなものでも達成感を与えてくれるという意味では、同じであると描かれていました。
そして、「自分の価値を認めてくれる人=女性は尊い」と見ているからこそ、観客(ステージの前とスクリーンの前の)である我々も、一方的に消費しているという罪悪感を持たなくていい。アイドルの消費については、ハン・トンヒョンさんとの対談でもさんざん語ってきましたが、こんなに納得のいく形があるのだと、目から鱗が落ちた気分になりました。
この映画については、書きだしたらキリがなく、ジェイダ・ピンケット・スミス演じるMCのロームや、アンディ・マクダウェル演じるナンシーなど、女性たちについても文字を割きたいところですが、彼女たちのかっこよさについては皆が共有していると思うので割愛します。
最後にひとつだけ。マイクたちのダンスももちろん見どころでしたよね。マイクが昔を思い出し、家具工房で一人踊る『PONNY』、旅の途中、バックストリート・ボーイズの『I Want It That Way』でリッチー(ジョー・マンガニエロ)が女性の店員に向けて踊るところ、そしてストリップ大会でマイクとマリク(スティーブン・”トゥイッチ”・ボス)が鏡に映ったかのように(シンメと表現してもいいのでしょうか)踊るシーンなどは、涙が出そうになりました。これに敬意を表さないなんてことがあるわけないですよね!!!