フェミニズムを軸に、様々なカルチャーを分析していくこの連載。今日は1987年のデンマーク映画『バベットの晩餐会』を紹介しようと思います。アカデミー外国語映画賞を受賞している有名な作品なので、ご覧になった方もいるかもしれません。タイトルからわかるように料理の映画です。監督はデンマーク出身で昨年亡くなったガブリエル・アクセルです。
『バベットの晩餐会』はデンマーク語と英語を使いこなす著名なデンマーク出身の作家カレン・ブリクセンの短編を原作としています。ブリクセンはイサク・ディーネセンという男性名を使って執筆することもあり、この作品も、1950年に雑誌掲載のために英語で書かれた際にはイサク・ディーネセン名義となっていました。改稿の末1958年にデンマーク語版として作品集に収録された際には、カレン・ブリクセン名義となっています。
話は単純で、寓話的なところがあります。19世紀、ユトランド半島の村に、牧師の父を持つ2人の娘マーチーネ(ビアギッテ・フェザースピール)とフィリパ(ボディル・キェア)が住んでいました。歳を重ね、父を亡くした後、かつての友人の知り合いで、パリ・コミューンの騒乱を逃れてきたフランス人女性バベット(ステファーヌ・オードラン)が村を訪れ、姉妹の家で家政婦として働くようになります。それから十数年後、バベットが故郷とのつながりとして買っていたフランスの宝くじが当選し、一万フランの賞金を手に入れます。
姉妹はバベットがパリに帰ってしまうと思って落胆しますが、バベットは2人に意外な申し出をします。宝くじで手に入れたお金で、亡くなった牧師の生誕百年記念の日に本格的なフランス料理を作りたいと言うのです。実はバベットはかつてパリの一流レストラン、カフェ・アングレのシェフだったのです。当日、田舎で敬虔に暮らしてきた人々の食卓に「ウズラのパイ詰め石棺風」をはじめとする贅を尽くした料理が並びます。そして最後に、バベットが宝くじのお金を全てこの食卓に使ったことが明らかになります。
料理がとにかく美味しそうに撮られていることもあり、この作品は美しく心温まる作品として愛されています。一方で、『バベットの晩餐会』は原作も映画もフェミニスト的だと言われています。何かの政治的メッセージを含んでいるようには見えないほのぼのした作品ですが、この映画は、女性たちが父の支配や暴力から解放される物語としても見ることができるのです。
抑圧と暴力
原作と映画では舞台が異なります。原作はノルウェーのベルレヴォーグという地域が舞台で、カラフルな屋根を持つ家々が並ぶ可愛らしい村が描かれています。一方、映画はユトランドの海辺の村を舞台としていて、オープニングでは茶色の屋根の家々が点在する様子が映されています。このオープニングでは村は晴れていますが、これ以降、映画の中で寒さと雨でくすんだ風景がしばしば強調されます。のどかではあるが色の少ない風景は、この村に住む一見敬虔で立派な村人たちが実は窮屈に暮らしていることを、原作とは違った視覚的要素で表現しています。村には牧師が亡くなった後もその信仰を受け継ぐ信徒たちが残っており、一見折り目正しい暮らしをしていますが、実際は不倫やら商売上のトラブルやらいろいろなゴタゴタを抱えています。実態は敬虔な理想とはかけ離れたものなのです。
マーチーネとフィリパは穏やかで、世俗の雑念に縁が無い女性たちです。悪く言えば生活の心配をする必要がない世間知らずのお嬢さんなのですが、この映画では父の支配を受けながらも高潔に生きている女性たちとして描かれています。姉妹の父はプロテスタントの極めて敬虔な宗派を率いている牧師で、自分は結婚して2人の娘がいるにもかかわらず、愛や結婚を不要と考えています。映画の中で牧師が、娘たちは自分の両腕だから奪わないで欲しいと行って求婚者を追い返す場面は、マーチーネとフィリパが身勝手な父によって恋や結婚の機会を奪われていたことを示しています。
娘たちの価値観もこの父から強い影響を受けています。フィリパがユトランドに保養にやってきたパリの歌手アシール・パパンの、歌を用いた扇情的な求愛を断る場面に顕著に示されていますが、父である牧師が支配する世界において、感覚的な歓びはしばしば排除されます。しかしながらこうした目に見えにくい抑圧の中でもマーチーネとフィリパはコミュニティへの奉仕にやり甲斐を見いだし、村人たちから尊敬されるようになります。
一方、後に2人の家政婦となるバベットは穏やかな抑圧というよりは凄まじい暴力を生き抜いてきた女性です。パリの騒乱で夫も子どもも殺され、すんでのところで処刑を免れ、友人のパパンの紹介でデンマークに逃げてきたという、昨今のシリアの難民を思わせる経歴の持ち主です。暗い雨の夜、ボロボロになって全く事情を知らない姉妹の家のドアに現れ、賃金はいらないからとにかく信頼できる友人の紹介があるところで働きたいと涙ながらに申し出るバベットは、おそらくひどい精神的トラウマに苦しんでいます。
静かな村で姉妹の優しさに触れたバベットはトラウマから解放され、やがて姉妹を日常の雑用から解放し、2人がやりたいことを十分できるよう助ける役割を果たすようになります。姉妹の家で、同じ信仰を持つ者同士が人間関係や商売のことで言い争いをする場面がありますが、ポットを手に入ってきて争いを止めるのはバベットです。ここではバベットが姉妹をトラブルから解放する役を果たしています。バベットが来て料理や掃除をしてくれるようになったため、姉妹がさらに村人への奉仕に邁進できるようになったということで登場人物のひとりが神に感謝する場面もあります。この作品では、家事やコミュニティへの奉仕というしばしば女性に片手間でできることとして押しつけられがちな労働が、実は分担や協力によって担われる専門的な仕事だということが暗示されています。
晩餐会の意味とは
姉妹とコミュニティの抑圧を解放するバベットの力がクライマックスを迎えるのが、宝くじで手に入れた1万フランを使って開く最後の晩餐会です。姉妹はバベットが買ってきたウミガメなどの珍しい食材に驚き、料理が何か罪深い快楽をもたらすのではないかと思って集会を開きます。そこで信徒の男性が「晩餐会では味覚がないみたいにふるまおう」と提案し、感覚の快楽を絶つことを提案して皆からの賛同を得ます。生前の牧師の振る舞いからも分かるように、こうした感覚の歓びを罪深いものとする考え方はプロテスタントの厳格な宗派に見られるもので、マーチーネが料理について地獄の業火のような悪夢を見たり、信徒たちが料理に対する不安で騒いだりするところでは、善良だが了見の狭い篤信な人々がコミカルにやんわりと諷刺されています。
ところが、晩餐が始まるとそういった感覚的快楽への抵抗は消し飛んでしまいます。最初は控え目だったお客たちですが、だんだん嬉しそうにワインや料理を頬張るようになります。パリに行ったことのあるレーヴェンイエルム将軍以外、料理を褒める台詞は皆あまり口にしませんが、それでも表情ひとつでどれだけお客が料理に惹かれているかわかるのが映像描写の強みです。信徒の集まりではとげとげしく言い争いをしていた人々が、バベットの料理の前で互いに優しく、幸せを分け合う人々に変身します。
いつもの諍いを忘れて微笑む信徒たちの様子は、堅苦しい教義よりもバベットの料理のほうが人々の心を癒やし、高めるということを示しています。最後にフィリパはバベットに対して、あなたは素晴らしい芸術家なのだから天国で天使も喜ばせることができるだろうと言います。フィリパがバベットを抱きしめて褒め称えるこの場面は、形にこだわり感覚的快楽を拒否する教条的な信仰よりも、人生の歓びを分け合うことこそが天国にふさわしいということをさりげなく表しています。この場面においては女性であり芸術家であるバベットのほうが、姉妹の父であった牧師よりもより天に近い存在として描かれ、父の支配よりも女性同士の連帯が世界に幸福と平和をもたらすものとして示されます。
この女性の才能と連帯が花開く世界には、決して男性の存在がないわけではありません。父の支配が打ち消されたかわりに、食卓には年老いてもなおマーチーネを愛しているかつての崇拝者レーヴェンイエルム将軍がいます。カフェ・アングレの料理を食べた経験がある将軍はバベットの料理を高く評価し、この晩餐会によって「この美しい世界ではすべてが可能だ」と思った、とマーチーネに告げます。ここに一瞬だけ、男女が互いの才能を正当に評価し合い、皆が対等に友として愛し合うことができる美しい世界のヴィジョンが立ち上がります。
原作を分析したアメリカの研究者サラ・ウェブスター・グドウィンは、このラストは「フェミニスト的ユートピア」の試みであると形容しています(Sarah Webster Goodwin, ‘Knowing Better: Feminism and Utopian Discourse in Pride and Prejudice, Villette, and “Babette’s Feast’”, Feminism, Utopia, and Narrative, edited by Libby Falk Jones and Sarah Webster Goodwin, University of Tennessee Press, 1990, 1-20)。これは原作についての発言ですが、映画『バベットの晩餐』は、美味しそうな料理とそれを囲む人々の姿、そして女性たちの微笑みと涙を映像に刻むことで、フェミニスト的なユートピアを見せてくれる作品だと言ってよいでしょう。