今回取り上げるのは現在上映中の韓国映画『ベテラン』です。まずこの映画のあらすじを紹介します。主要な登場人物は、ソウルで働く熱血刑事のソ・ドチョルと財閥ジンジングループの御曹司であるチョ・テオ。あるパーティで出会う二人ですが、ドチョルはそこで、情緒不安定なテオを「怪しい」と感じました。その後、偶然にもドチョルは、かつて世話になったトラック運転手の事故にテオが関わっていることに気がつき、金にものをいわせて犯罪をもみ消そうとする財閥の妨害に屈せず巨悪との戦いに身を投じる……というものです。
熱血刑事のソ・ドチョルを演じるのは、『新しき世界』や『国際市場で逢いましょう』などに出演の、いまや韓国の大作映画には欠かせない存在となったファン・ジョンミンです。本作では、正義のためなら手荒なこともいとわない、アウトローな刑事を演じています。見ていて思ったのは、巨悪に立ち向かい、考え方がオールドファッションで人情に厚いという意味では、『下町ロケット』の阿部寛にも通じるものがあるのかなということ。窮地に陥っても、どこか楽観的に見える明るさがあるところも似ています(ファン・ジョンミンも阿部寛も次作で雪山に上るところまで共通しています)。
対して、財閥御曹司のチョ・テオを演じるのは、ドラマ『トキメキ☆成均館スキャンダル』や映画『Antique〜西洋骨董洋菓子店』などにも出演したユ・アイン。漫画原作の作品やメジャーなドラマにも出ていて、日本でもファンミーティングを行ったこともある一方、デビュー作は重めのインディペンデントムービーでした。ユ・アインは釜山映画祭で、『ベテラン』の監督であるリュ・スンワンから『ベテラン』の構想を聞いて、自らチョ・テオ役を志願したというエピソードには納得しました。私でさえも、常にユ・アインは自らを変えてくれる役を欲しているという空気を感じていたからです。
この映画を取り上げるにあたり、担当編集K(20代男性)に、見てもらいました。彼の感想は「この映画をジェンダーで切り取れるのだろうか?」というものでした。そして、熱血刑事が「個人的には『暑苦しい』」と感じたそうです。韓国映画やアジア映画をいつも見ている私と違い、韓国映画やアジア映画をほとんど見ない編集Kの感想は新鮮なもので興味深く感じました。ということで、今回は編集Kの戸惑いをもとに作品を見ていきたいと思います。
「男らしさ」とミソジニーは必ずしもセットではない?
編集Kが、熱血刑事ドチョルを「暑苦しい」と感じるそのこと自体、日本のジェンダー観の表れではないかと私は感じました。今、行きすぎた正義感は、もっとも忌み嫌われるものになりつつあります。西島秀俊主演のドラマ『無痛〜診える眼〜』(フジテレビ)でも、伊藤淳史演じる刑事の正義感が行き過ぎて、それが「犯因症(エネルギー過多の一種で、犯罪を起こす者に現れる徴候)」として現れるという描写がでてきます。日本では、熱血漢のエネルギーの向かう先が見えにくいということなのかもしれません。
また編集Kは、ドチョルが暑苦しいジェンダー観を持っているわりに、女性に失礼なところがあるようには見えない事にも驚いていました。確かに、ドチョルは自分の息子に対して「男は金の心配なんかするんじゃないぞ、スケールのデカイ生き方をするんだぞ」と「ザ・男」な考え方を教えるような男ですが(子どもは寝てるので聞こえてないんですけど)、かといって、自分の妻に対しても同僚の女刑事ミス・ボンに対しても、一方的に「女は黙ってろ」と押さえつけることはありません。
ちなみに、女刑事ミス・ボンの繰り出す華麗なキックはこの映画のひとつのポイントとなっています。「ジャンプキックでかっこよくしめる」(リュ・スンワン監督が実際に語っていた)ことが多いアクション映画だからこそ、女性であるミス・ボンのキックが意外性のあるアクションシーンに一役買っているというのがひとつ。それだけでなく、男だらけのチームの中で紅一点であるミス・ボンが、チームの一員として対等に描かれているとも見ることができます。紅一点でなくとも、主役以外の登場人物に花を持たせることが作品のスパイスになることはありますし、そこに自然に女性が使われることは、ミス・ボンが何らかのジェンダーを押し付けられているわけではないという風にも見えます。
編集Kの視点は、「男らしさに縛られている熱血刑事のドチョルは、同時にミソジニーも持っているはず」という考えから生まれたものなのかもしれません。つまり「ドチョルのように男らしさに縛られているならば、妻やミス・ボンにも男のサポート役を求めるだろう」と考えていたのではないでしょうか。だからこそ、ドチョルにミソジニーが感じられないことに驚いたのではないかと思います。でも『ベテラン』に限らず、他の映画やドラマでも、このような男性や男女の関係性の描写はたびたび見られるもので(もちろん、それはフィクションだからということもあるのでしょうけれども)普段から韓国映画を見る私には新鮮な視点でした。
「男らしさ」に縛られるふたりの相違点
『ベテラン』では、ドチョルとは別の男性像も描かれています。悪役である財閥の御曹司チョ・テオは、財閥の会長である父親の後妻の息子で、会長の亡くなった弟の息子(つまりテオの従兄弟)と共に行動しています。ジンジン財閥一族の中では主流ではない。それなのに(いやだからこそ?)、彼らは血や家父長制に縛られていて、そのことでギスギスしている。なぜならば、家というものが彼らに経済的余裕を与えるし、それを手放したくないからでもあうでしょう。しかも、チョ・テオは女優やモデルをはべらせているだけで、人とも思っていない。食事の席で女性の顔に食べ物を押し付けるシーンでは、はっきりと、ミソジニーも感じられます。
この映画の中で、血や男らしさに縛られ、ミソジニーを持つテオは悪です。でも、同じように男らしさに縛られているのに、ミソジニーを見せない刑事ドチョルも描かれている。これは、ドチョルが男も女も関係なく、悪いもの以外の人間であれば誰でも愛せる人である一方で(テオに対して何度も「罪だけは犯すなよ」と警告しています)、テオが、男も女も関係なく、自分以外の人間を人とは思っていないからではないからでしょう。
そういう意味では、ジェンダーに関係ない映画にも思えます。本来はドチョルのように、人を信じるときにも憎むときにも「男も女も関係ない」ということこそが、女性が一番求めているものだったりするという意味では、直接的にはジェンダーの話を描いてはいないけれど、ジェンダーに繋げることのできる映画なのかも、と思うのです。
最後に。テオは悪役に徹してくれたのがよかった。もしも、悪役をやれるのが嬉しいという自己満足だけで、正義と悪が曖昧な中途半端な演技であったら、こんなにユ・アインが評価されることもなかったでしょう。