家族について考え続けた大学時代
私は、ショックだった。自分の心の中にある「おじいちゃん」という存在が、今にもガラガラと崩れそうで、怖くなった。もう一度祖父に会って、どんな過去があったって、私にとっての祖父は「優しいおじいちゃん」であることを確かめたい。でも、もう祖父には会えない……。
祖父を否定されたことと、母の受けてきた虐待がショックで、私は母の前でぽろぽろと泣いた。母は不思議そうに私を見て、「そんな、泣くような話じゃないよ」と言った。母は、私にどんな反応をしてほしかったのだろう。いつも通り、何もかも解っているような顔の私に、「大変だったんだね」とでも言ってほしかったんだろうか。
家族に対する鬱憤が溜まりまくっていた私は、大学に入ってから臨床心理学を専攻し、幼少期の親子関係がその後の発達に与える影響について学んだ。児童相談所の一時保護所で非常勤の仕事をして、虐待を受けたり機能不全家族のもとで育った子どもたちの保育に没頭した。大学卒業後の進路は、家庭裁判所調査官という心理職を志した。この職業の仕事内容は、離婚訴訟や遺産相続争いなどの家事裁判において、家庭の状況を心理学的視点から調査するというものだ。家庭という閉鎖的な空間で長年悩んできた自分にとって、そこに第三者として介入する仕事には大きな意義を感じた。結局試験に落ちて、諦めてしまったのだけど。
大学時代に臨床心理学や児童福祉に関わる場所に積極的に出向いたことによって、私は母と自分の関係が共依存的だと自覚するようになった。そして、“母が自分を「都合の良い理解者」としてしか見ていないときがある”ということに気がつき、母に対する憤りが募ってきてしまった。
大学3年生のころ、母が父に感じている不満を、私の口から父に伝えてほしいとの頼みを断ったことをきっかけに、私は「母にとって都合の良い理解者」という役割を担うことをやめた。
現在は、母と私はお互いに心地の良い距離を置きつつ、良好な関係を築いていると思う。また、私は大学の学生相談に通い、カウンセラーさんに協力してもらいながら祖父や母に対する気持ちの整理をしたので、今では祖父との楽しかった記憶を素直に思い出せる。
でも、今でも「どうして祖父は母に虐待をしてしまったのか」ということは考えるし、母はやっぱり私に「理解者」になってほしいと思っているのではないかと感じるときもある。
保守派の支持する“伝統的家族”について思うこと
昨年は渋谷区のパートナーシップ証明書発行を発端に同性婚の法制化が叫ばれたり、夫婦別姓の認可を求める裁判が行われたりして、「家族の多様性」が積極的に議論された年だったと思う。その中でたびたび聞こえてきたのが、自民党の保守派による「伝統的家族観を壊すな」という声だ。
日本の家族形態は江戸時代からコロコロと変わっているので、彼らが言う「伝統的家族」というのが具体的にどのようなものなのかいまいちよく分からないが、「男性が女性を養う」「女性は子育てに従事する」「妻は夫の3歩後ろを歩け」といった、家父長的な家庭を想定しているような気がしてならない。事実、自民党政権時の少子化担当大臣は昨年の10月までずっと女性が登用されてきたことことに、「少子化の責任=女性」「子育ては女性がするべき」という観念が表れている気がする。
また、自民党が提案する憲法の改正案には、家族・結婚に関する部分である第二十四条に「家族は、互いに助け合わなくてはならない」という文が加えられている。自民党が作成した、改正案に関するQ&Aコーナーには、その文が加えられた理由は、「家族の絆が薄くなってきている」ためと記載されている。
自分の家庭の「家族の絆」を強くしたいと思うのは自由だ。ただ、そうした観念を政治の場に持ってきて、「強めるべき」としてしまうのは、どうなのだろうか。すべての家庭がそうした方がいいとは限らない。私と母、母と祖父のようにある程度距離を置いた方が良い家庭だってある。自民党の憲法の改正案には、そうした家族の存在すら想定できていないという無知を感じる。友人との間に感じた境界線を、政府に対しても感じた。
「家父長」や「男尊女卑」といった観念がこの世になければ、祖父も母も辛い思いをしないで済んだはずだ、と考えているから、このような自民党保守派の意見を聞いていると怒りがこみ上げてくる。自民党保守派も、罪の意識もなく女性にセクハラする男も、みんな、知らないのだ。そういった観念で、傷ついてきた人たちがいることを。
自分の行動・発言が相手を傷つけているということに気づかないというのは、ある意味一番厄介だ。そういう意味では、傷ついた側は傷ついたことを伝えなくてはいけないと思うし、それを受け取る側は、今までの自分にはない考えを相手が言っていたとしても、一度耳を傾けてみないといけないと思う。私も母に「私に『理解者』としての役割を期待しないで」と言えて良かったし、友人には同調するフリをするのではなく、きちんと本音を伝えていくべきなんだろう。
私は、家族を軽んじたり、個人主義的な考えを持っているわけじゃない。家族のことは愛してるし、大事にしていきたいと思っている。
家族って、全肯定も全否定もない。“愛情”とか“憎悪”とか“感謝”とか“疲れる”とか“尊敬”とか、日々変わっていく色々な感情に囲まれて、繋がっている。私の母に対する気持ちも、“私を都合の良い「理解者」として見てほしくなかった”と恨みたくなったり、“母が祖父と縁を切らずにいてくれたお陰で、私は祖父と良い関係を築けたんだ”と感謝したくなったり、“今度一緒にカラオケに行きたいなー”と思ったり……くるくる変わっていく。
同じ人が一人としていないように、家庭にだって同じものは一つとしてない。そこに、「どの家庭もこうあるべき」という枠をつけたら、生き辛くなる人が出てくるのは当然だ。
政府には、「家族の多様性」を訴える人々が抱えるさまざまな思いを、どうか汲んでほしい。
(北原窓香)