よく「父親は妊娠期間も出産体験もないから、父になったことを実感するのに時間がかかる」といわれるが、母親も産んだことで自動的に母性に目覚めて“母”の心境に一変するわけではない。もうお母さんなんだ、と自分で言い聞かせ、目の前に存在する我が子を育てながら、意識的に母性を身につけていくものなのではないだろうか。出産したからといって全自動で無償の愛が湧きあふれ、赤ちゃんが可愛くて仕方がなくなって、睡眠や食事が満足にとれなくとも幸せを感じられるのだったら、どんなに良いだろうかと、産後ぼんやり思ったことがある。
女性には元来、母性本能が備わっているはず……という母性神話は、今なお根深い。実際、産後の女性は「母性」をもたらすホルモン、オキシトシンとプロラクチンの分泌が盛んになるらしい。
おもにボディタッチで分泌されるというオキシトシンは幸せホルモンとも呼ばれ、多幸感を得られるものだという。医療現場では陣痛促進剤、産後の子宮収縮剤として使用される。赤ちゃんに乳首を吸われたり、スキンシップをとることによって分泌されるほか、信頼する相手とのセックスやペットとの触れ合いでも出るそうだ。プロラクチンは母乳を与える際に乳首を吸われると分泌され、性欲を抑制する働きも持つ。これらのホルモンが産後に分泌されるため、母親は肉体的にも精神的にも重労働である乳幼児期の育児を乗り切れる、といわれる。
だが人間の感情や行動は多様かつ複雑、ホルモンですべて片付かない。筆者の場合、産後は多幸感にあふれていたからではなく、「自分がやる以外、なすすべがない」と追い詰められていたから何とか乗り切った。むしろ妊娠中は多幸感に満ちていたが、産後は一転して絶望感に襲われて参った。子供へのありあまる愛情によって世話をしたくなり、やってあげるようなことがあったかどうか、記憶をたどってみても思い出せない。今どこをどう切り取って思い出しても、「あの頃はつらかった~」という感想になってしまう。もっと自動的に、愛情がとめどなく溢れるのが普通なのかと思っていたが、どちらかと言えば頭の中は不安ばかり。ノイローゼ気味だったのかもしれない。今は5歳に成長した我が子と生活し、特に悩みや不安が表面化していない家庭の安定期に入ったと言えると思うが、命、他人の人生を預かることの重責を身を持って知ったからこそ、第二子を持つことをためらい、現時点まで産まない選択をしている。
ただこれもあくまで筆者のケースであって、「無償の愛で乗り切れた」ケースの人もきっといるのだろう。それもその人のケースだ。だから、多様な女性たちをひとくくりに「母親なんだから子供がかわいくて仕方ないはず!」と決め付けるのは乱暴が過ぎる。その乱暴な前提に基づいて、母親業を首尾よくこなすことが求められている現在の日本社会は、少なくとも筆者にとってはわりと息苦しい。
(下戸山うさこ)