都合よく扱われ続けている女性たち
朝鮮戦争休戦後もその流れは止まりません。まず1961年に前述の扶養控除から独立して配偶者控除が作られました。主たる扶養控除対象者が配偶者=妻であり、妻とは「単なる扶養親族ではなく、家事、子女の養育等家庭の中心となって夫が心おきなく勤労にいそしめるための働きをしており、その意味で夫の所得の稼得に大きな貢献をしている。このような家庭における「妻の座」を税法上も認めるため」に設けられた制度です。
世帯主である男性が外で働き、女性は家事育児を無償で行うスタイルを前提とすることで、女性を家庭に縛り付けながら、必要に応じて臨時工としてその労働力を利用する仕組み、つまり「パート専業主婦」を政府主導で確立したのです。1987年には、「所得を稼得するものに対する配偶者の貢献を評価」つまり内助の功を評価しながら、「パート問題」(パート主婦の所得が一定額を超えると、世帯全体の税引き後手取り所得が減少する逆転現象)を解消するために、配偶者特別控除が創設されました。これは 2 年後の 1989 年の消費税の導入により低額所得者の負担が高額所得者よりも大きくなる逆進性に備えた「主婦よ、家計が苦しければもっとパートに行け」という目くらましの減税政策でもありました。
配偶者控除があると、労働者側は非課税限度額以上働くインセンティブを持ちません。雇用主にしても、臨時工を非課税限度以内で長時間働かせるためには、低賃金の方がよいので、パートタイマーの時給を上げるインセンティブを持ちません。結果として賃金が低いところで需給が一致し、賃金が決まってしまいます。
女性労働者の低賃金構造の固定化を決定的にしたのは1975年の雇用保険法でした。これは、妊娠、出産、育児などを機会に退職する女性労働者への失業給付を強制的に減らすことで、正社員での働き口や条件の良い仕事を探す余裕を与えず、パートタイム低賃金労働者として再就職させる、M字型雇用(「専業主婦という生き方を選ぶのはなぜか? 結婚・出産・育児で仕事をやめる女性たち」参照)を促進する政策でした。それまで家庭に入ったら外に働きに出られなくなっていた主婦たちを半ば強制的に外に出すことで、パートタイム労動者として利用する仕組みが作られたのです。
この法律のもう一つの狙いは、雇用調整給付金制度による「一時帰休」の制度化でした。この制度は労働組合の承認のもとで企業内に失業の予定者を作りだすもので、政府と企業が結託したリストラのようなものでした。この雇用調整給付金をきっかけに、大量のパートタイム女性労働者が帰休、希望退職、解雇されました。合理化の名の下に人員整理をしやすい環境が作り上げられ、解雇しやすいパート労動者の「首切り」などが「当然だ」という雰囲気が蔓延します。こうして、女性の多い不安定就業階層は低賃金かつ簡単に「首切り」してもよいという経済的暴力構造は完成しました。
女性は産む機械でも奴隷でもない
戦中・戦後を通して、日本は一貫して政府・企業さらには男性正規労働者を中心とする労働組合までもが結託して、首切りしやすく低賃金で働く女性非正規労働者を作り出してきました。
大企業経営者や政治家が「歴史に学べ」などと、軽々しく口にしているのを見かけると、私は腸が煮えくり返るような怒りを覚えます。戦国時代の武将のインチキ歴史小説なんか読んでいないで、この現状を作り出した自分たちの悪事をこそ振り返れ、と言って張り飛ばしてやりたい気分になります。
女性は産む機械でもなければ、戦争や経済成長のために都合よく安い労働力を提供する奴隷でもありません。国や企業に知らぬ間に騙され、都合よく利用されないためにも、私たち女性こそ歴史をしっかりと学び、この不当な扱いと戦っていかなければいけません。
参考
加藤祐治、1987『現代日本における不安定就業労働者』
菅山真次2011『「就社」社会の誕生-ホワイトカラーからブルーカラーへ』
増山道康、2004『戦争計画による社会保障制度形成 : 人口政策確立要綱』
公益社団法人 日本租税研究協会
税制調査会、昭和35年12月『当面実施すべき税制改正に関する答申(税制調査会第一次答申)及びその審議の内容と経過の説明』
税制調査会、昭和61年10月『税制の抜本的見直しについての答申』
人口問題研究所、昭和16年3月『人口政策確立要綱』