偏見のバカバカしさを教えてくれる愚かさ
このように差別問題において非常にリアルな描写を実現しているこの作品だが批判も少ないながらある。それが陸運局に勤めるナマケモノのフラッシュの描写だ。「偏見から自由になろう」というテーマをもつこの作品において、ナマケモノという「ステレオタイプ」を用いて笑いにつなげることは矛盾なのではないかという指摘である。
しかし「偏見を捨てよう。ステレオタイプはよくない」というスローガンをやみくもに連呼すれば、観客にそのメッセージは届くのだろうか。実をいうと1991年に、「多くの情報があふれていると、かえってステレオタイプが活性化されてしまう」という結果が導かれた実験がある。ギルバート&ヒクソンによるもので、被験者にアジア系に関する形容詞を書かせながら、同時に簡単な視覚検索課題を課す群と課さない群に分けたところ、ステレオタイプを示す形容詞が作成された割合が後者より前者のほうが高かった。つまり様々な意味ある情報を一度に伝えようとしても、人はかえって一度形成したステレオタイプに飛びついてしまいがちになるのだ。だとするとスローガンの連呼は無意味、いやむしろ逆効果と言える。
策が無いわけでは無い。例えばTVアニメ『シンプソンズ』では何事においてもダメな父親ホーマー・シンプソンに作中しばしばステレオタイプに満ちた発言をさせる。しかしそれが視聴者のステレオタイプを強化するかというとそうではなく、大きな赤ん坊のような彼のキャラクターの効果でいかに偏見が根拠のないうわべだけの馬鹿げた発想であるか再認識させられる構造になっている。それを踏まえるとあらゆるデータを並べ言葉を連ね「人種や性別によるステレオタイプ化は間違っている」と主張するよりも、我々の愚かな部分を体現してくれるキャラクターに一言ステレオタイプ的な発言をさせる方が、その短絡さをより我々に認識させやすくするのだ。
ナマケモノのフラッシュにも実は素晴らしいオチが最後に用意されている。見事、警官採用試験に受かったキツネのニックとジュディの初仕事は暴走スポーツカーの検挙であった。なんとそのスピード狂の運転手は職場では常にスローモーだったフラッシュなのである。この時、“ナマケモノ”というステレオタイプに隠れた彼の本質が露見し「ね? ステレオタイプなんて個体差を超えるものではないでしょう?」と目配せするような、見事な仕掛けを製作者たちは用意していたのだ。フェスティンガーは1957年に自分とそれを取り巻く環境についての認知に矛盾や食い違いがあるとき、人はこの認知間の不協和を解消するよう動機づけられていると主張し、これを「認知的不協和」と名づけた。フラッシュの場合ものんびりとした行動しかとらないナマケモノばかりの職場の雰囲気と自分の本質との不一致を回避するために、スピードに快を感じる自己を普段の生活では過度に覆い隠していた可能性もある。これは人間も同じで、ゲットーに暮らす黒人の少年少女が学校をドロップアウトしてしまうのも、日本の同性愛またはトランスジェンダータレントの多くが女性性を強調したおねえキャラとして振る舞うのも、周囲からのステレオタイプ要請に過剰適応している可能性があると言える。