自分と同じ名前を持つ母親、自分と同じ顔を持つ兄の水は螢にとっては自分の分身であり、他者にはなりえません。家庭内における他者の不在は、母親である「螢」と水にとっても同じ効果を持っています。つまり、螢の問題は「螢」と水の問題でもあります。しかし大学進学をきっかけに「外」の世界に触れた螢だけが、他者との接点を通じてアイデンティティの獲得に成功していきます。その大きな契機となるのが、仕事を得、恋をしたことです。
物語の中盤、家族からの自立を意識した螢は自らの美貌を生かしてファッションモデルをするようになります。その飛躍のきっかけになるのが、ロングヘアをばっさり切るというCMの仕事でした。螢と水を区別するのは性別と髪型に他ならないことからもわかるように、本作において髪型は人格を象徴しています。水さながらのショートヘアに生まれ変わった螢は、鏡に映った自らの姿に水を見出し、「別々に生まれてきたという間違い」を修正して完全体に変容したかにみえます。物語の中では、水の要素を持つことで母親からの寵愛を得られるタイミングも描かれます。しかし、水のコピーとしての愛情を螢は受け入れませんでした。そしてそのことによって、最後の大展開に向けた引き金を自ら引いてしまうのです。
内気な螢が母親の愛情を拒否するほどの強さを身につけるに至った背景のひとつが、隣人の下田との友愛関係です。螢をして「爪の先まで他人」と言わしめる下田は彫刻を専攻する大学の先輩で、男らしいナイーブさと優しさを持ち合わせたキャラクターです。下田への好意を自覚した螢は「(水以外の)他人を触ったら汚れるような気がしていたが、触れてみなくてはなにひとつわからない」と語ります。下田という決定的な他者を得たことにより、それを鏡として螢は自分の像を結ぶことに成功していくのです。螢と異なり、母親である「螢」と水は他者と対峙することがとうとう叶いませんでした。ここが運命の分かれ道であり、最終的な大展開につながっていくのです。
その大展開をここで紹介するのは止めておきます。いろいろと「考えさせる」終わり方をしていますので、ぜひご自身で解釈していただければと思います。
それにしても、同質性の高い居心地の良さからの卒業に向けて他者と格闘する螢の姿は、今日の私たちにこそ必要なものであると思えてなりません。以前「おそ松さん」の回でもご紹介したように、現在の日本社会は人間関係の閉鎖・内輪化と呼べる状況に直面しています。その背景には、雇用の流動化や不景気などを基底に、所属や肩書きに代わって個人が持つコミュニケーション能力がその人のポジションを決定するようになったという社会状況があります。
本作が連載された1980年代の後半、日本はまだバブル経済の影響下にありました。螢のナイーブさと前向きさ、力強さは経済的好機にあった当時の世相を反映したもののようにも感じられます。そのさなかに「虚無の美」と向き合っただけでなく、「紐解かれ語り直されるべき現代性」を備えた作品を紡ぎ出した吉野先生の才能と本作の素晴らしさにただただ感動するばかりです。最後になりますが、謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。