こんな風に、物事のもともと意図されたものではない側面を楽しんだり感動し、思わぬところにある良さの発見を喜ぶ松田だが、そこに、世を斜に構えて見たり、わざとマニアックな楽しみ方をしているのだというようなポーズはまったくない。そういうポーズは、逆に外部の視点・価値観を強く囚われてしまっている。松田は、本や映画の楽しみ方について触れる中で、次のようなことを書いている。「万人受けはしないが」とか気にしないで、女向けとか男向け、とか気にせず、「好きなもの、興味のあるものを心の赴くままに、手当たり次第楽しんでいいんだ! それでいいのだ!」。(「エクスキューズなしで」)
このきっぱりしたスタンスは、昔のアニソンをもじったタイトル『ロマンティックあげない』にも現れている。私の感じた「ロマンティック」(この本の中で言えば、私の心の動き、私の心を動かすもの、またその基準)は、誰かのものではなくて、私のもの。本書評冒頭で、松田にフェミニズムに関する文章があることに言及したが、このタイトルももちろん、フェミニスト的主張、スタンスを示すものとしても付けられたのだろう。
ここまで主に、その日常の楽しみ方、味わい方について取り上げてきたが、この本には、この社会で生きる日々には、居心地の悪い、納得できない、満足できないという思いを抱かされることも多いことが、ところどころ、書き込まれている。そういう社会に生きているからこそ、日常の中で、自分なりの、自分を力づける心の動きを旺盛に探らずにはいられないのだとも捉えられる。
だから、松田は、「昔ながらの型通りに描いても、現代のニーズと乖離してしまう」という認識に基づき、「よくある大枠だけじゃ、もう満足できない、納得できない気持ちを汲んで」作られた作品に出会った時には、「ほんといいよなあとしみじみうれしくなる」(「ダイアモンドが女の子の一番の友達じゃなくなったあと」)。これは、意図されたものではない良さと対比すれば、明確に意図された、良い世界を作ろうとする勇気あるものに対する反応だ。
そして、松田本人も、「白いワンピースに色を塗れ!」「時代は特に変わっていない」「『心のこもった』はたちが悪い」「マットレスを担いだ女の子」などのエッセイにおいて、この世を良いもの、というかまともにしようという思いを、印象深い慎重な筆致で、でも明確に表明している。
『読めよ、さらば憂いなし』で、田辺聖子の戦闘体験を綴った自伝的作品『欲しがりません勝つまでは』を「一冊まるごとあこがれについての本だ」と評した上で、松田は、次のように書いていた=「あこがれる力、そしてそれを持続する力は、自分を守る力のことだった。今だって必要な力だ」。当然、この「あこがれる」ことは本書の「ロマンティック」へと繋がってくる。思わず吹き出してしまったり、グッときたりする文章の詰まったこの本は、そういう認識の上で書かれた本でもあると思う。
(福島淳)
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