歪んで継承された女嫌い
女だてらに「男たる者」を移植されると、嫌が応にも男と女の二項対立を意識せざるを得なくなる。両者の対比をさほど意識しなくてよい環境で育ち、自分の性別やポテンシャルを自然な形で受容した者の中には、「男であること」「女であること」を対立させたり、どちらかに頑にこだわったりする心情がいまいち分からない方もいらっしゃることだろう。が、それもまた環境由来の思考バイアスであり、こだわる者にも、こだわらない者にも、各々「そう仕上がった背景」があるというものだ。
私の場合は、父由来の「男らしさ」「強さ」を根拠に、自分の「女らしさ」「弱さ」を排除する、今となっては不自然としか言いようのない活動に熱中した。しかも、嬉々として。しかし、いくら「我は男たる者」と己を鼓舞したところで、等身大の私はただの幼い女児である。たまには誰かに甘えたい。弱音だって吐きたい。そんな自然欲求を我慢することが、女たる者が男たる者になるための試練である。よって、はりきって堪える。つい堪えきれずに泣こうものなら、「女々しい」の叱咤と共に父のビンタが飛んで来る。この時、父を憎むことができれば諸々の葛藤は生まれなかったと推測する。が、如何せん真剣に彼を敬愛していたため、ビンタを食らうごとに「ありがとうございます。押忍」と真顔で謝辞を述べた。いわく体育会系マチズモの極みである。
精神の男根をせっせと磨く一方で、女性としての肉体が成長していく。早熟だった私には10歳で生理が来る。ひどい生理痛にも悩まされる。胸も膨らむ。痴漢にも遭う。自分本来の女性性が、嫌が応にも可視化されていく。自分が女であるという動かしようのない事実に失望する。私が男ならば父のロジックを無理なく全う出来るはずなのに、女ゆえに、ままならない。どうして女として生まれて来てしまったのか。性別に罪悪感を覚え、己を責め抜く内罰過程において、外罰傾向が増す。
女は、弱い(と思い込まされている)。だから、嫌いだ(自分の女性性を嫌悪している)。すぐに泣くし、甘える(泣くな、甘えるな、と教育されている)。女は自らの弱さを「女だから」との理由で正当化する(それを私は許されない)。――私が嫌う女とは、私が蔑ろにしている私の女性性である。嫌う根拠は我に在る。その事実に気づかず、または見て見ぬふりをして、「女嫌い」の安直な暴論を振りかざす。いわく、女は仮想敵。それを歴然とした「外敵」扱いするためにはどうすればいいか。簡単だ。「ほら、見てみろ、やつらは気持ちの悪い生き物だろう」と、他人事を眺める客観視点を用いて自分に言い聞かせてやればいいのだ。
だいたい女は、必要以上に他者に粘着しすぎる。べたべたと群れて、干渉し合い、「みんな一緒」の同調圧力をもって他者を制圧せんとする。「いや、私は一緒じゃなくて大丈夫です」と言おうものなら、集団ヒステリーを起こして「異なる者」を断罪する。そういう男もいる。女性性が強いのだろうか。いずれも、強者に擦りより、媚び、保護を求める。金や安定や保証を得るために、自力で努力せず、他者より冨を奪取せんとするさもしい泥棒根性を「幸福」と呼ぶ。とんだ茶番だ。
いやいや、こちらこそ自己由来の偏見のうちに他者をからめ取っているわけだから、無礼千万の沙汰である。無論、偏見を根拠に特定の誰かを憎むつもりはなかったが、どうにもこうにも「女性性のエネルギーが気持ち悪い」。いわゆる同族嫌悪は、自己内の葛藤の証。他者への嫌悪は、管理しきれない自己嫌悪のミラーリングに他ならない。よって、凝視に耐えない。