男であるとか女であるとかを意識せずに物語を追えば、普遍的な不倫の話。
2005年に製作された『ブロークバック・マウンテン』を今になって見ようと思ったのは、ある友人との会話がきっかけでした。
物語は、アメリカ中西部を舞台に、二人の男性を中心に描かれます。ワイオミング州のブロークバック・マウンテンで羊の放牧の季節労働の仕事を通じて出会ったイニスとジャック。当初、二人は、昼の仕事内容も別で、食事の時間だけを共有して、夜も別々の場所で寝ることになっていました。ところがある日、酒に酔ったイニスは、ジャックとともにテントで一夜を過ごすことになり、一線を超えてしまいます。
その後、放牧の期間も終わって、それぞれに結婚もして別々の人生を歩んでいた二人ですが、ずっと互いのことを忘れられませんでした。そして、一緒に仕事をしてから4年後、ジャックがイニスの元を訪れたことで、二人は以前の関係性に戻り、年に数回ブロークバック・マウンテンで逢瀬を重ねます。
映画を見てまず思ったのは、男だとか女だとかということを意識しなければ、どこにでもある不倫の物語だということでした。アン・リー監督も「ゲイ・ムービーであると同時に普遍的なラブストーリーである」と公開時に強調していたそうですが、それは、ゲイ・ムービーというイメージがつくと、幅広い層に見られないという意味ではなく、本当に普遍的なラブストーリーであると解釈して撮っていたから強調していたのだと思います。
共同生活をし、会話を交わすうちに次第に打ち解け、ある日、お酒の力を借りて一線を超える。これは男女の間ではありふれていることです。また、イニスの結婚生活の描かれ方も普遍的です。ボスからの急な仕事の呼び出しで子どもたちの面倒を見られなくなったイニスが、アルマの仕事場であるスーパーに子どもたちを連れていって口論になるシーンには、とんでもないリアリティがあり、日本で問題となっている、待機児童問題を思い起こしてしまいました。
さらにイニスとジャックの不倫関係も普遍的です。不倫相手はお互いに、少しずつ積もっていく日々の様々な問題を見なくていいし、たまにしか会えないからこそ、話しがはずみ、分かり合えたような気持ちになれるものだと言えるでしょう。いいとこ取りをしているだけなのに、不倫の関係こそが本当の恋愛感情だと思ってしまう。また、一方がたまに会う関係性では物足りなくなり、もう一方が、そうは言っても生活は壊せないと躊躇し、次第にすれ違うところも、普遍的です。
ところが、普遍的なものが散りばめられているからこそ見えてくるものがあるのです。
制裁はなぜ行われないといけないのか
この映画が、「普遍的な恋愛映画」では終わらないのは、世間は男と男の関係性に対して、普遍的な男女のカップルと同じ態度ではいてくれないことをあぶり出しているところにあります。
イニスとアルマは、イニスの不倫がきっかけとなって離婚してしまいます。男と男の関係にまずNOを突き付けたのは、妻のアルマでした。彼女は、イニスとジャックが4年ぶりに再会したその日に、二人の関係性を知ります。しばらくはそのことを胸に秘めていた彼女でしたが、結局二人は離婚します。ここまでは、男女の不倫関係にもあることです。
ところが、この映画の中には、男と男の関係には、さまざまな制裁があるということが描かれています。それは、なにもイニスとジャックにだけ向けられるわけではありません。
例えば、イニスが語る昔話に出てくる男たちが象徴的です。イニスはかつて父親に、牧場暮らしをしている男二人が、町の笑われ者となり、やがて男の一人が、無残な姿で殺されているところを見せられたことを語るシーンがあります。ここには、イニスの父親の、説明しがたい恐怖が描かれていると思いました。そして、その恐怖は「芽」として描かれていると思うのです。
原稿を書くにあたって、ネット上にある過去の感想などを一通り見てみました。ある感想の中に、イニスとジャックはいつからお互いを意識したのか、そして二人は最初から同性愛者だったのかということが取り上げられていました。
私は、男同士であっても、人間同士が惹かれ合うのは「普遍的」なことであり、個々人の中に「(同性愛の)芽があるか否か」ではないと思っています。ところが、それは男と男のときにだけ、世間的に「普遍的」なこととしては見てもらえない。そして、社会的な制裁が怖いから、自らの芽に気づいても抑えつけようとしたり、見ないようにしたりしようとする人がいるのです。さらに芽を抑えようとする気持ちは自分の中だけに留まらず、街の中で、その芽を見つけたときには摘み取ってしまおうとするし、花が咲いてしまったとしてもその命を奪ってもかまわないものだと思っている人がいる。そのことが、映画には描かれていました。
二人が出会うきっかけとなった牧場の主人であるアギーレも、二人の仲を知って、この関係性を摘み取ろうとします。ジャックが再び季節労働の仕事を求めてアギーレの元を訪れたとき、ジャックに、イニスとの関係性を知っていると告げるシーンがあるのですが、このとき字幕版では「お楽しみ」「妙なマネしやがって」と、吹き替え版では「薔薇の蕾を楽しむためにお前らを雇ったんじゃないんだ」と表現するのです。私は「芽」と書きましたが、「薔薇」や「蕾」という言葉と偶然にも繋がっています。「薔薇」や「蕾」という表現を使うアギーレは、「芽」を忌避する感情のなんたるかを知っているんだなと感じました。それは「ホモフォビア」だと思います。
男と男の間に「芽」があるように、男女の間にも「芽」はあるはずです。だって、それは「人を好きだと思う感情」なだけなのですから。でも、男性は、男と男の関係性の中に、その「感情」を見てしまったときにだけ、恐怖(ホモフォビア)を抱いてしまうし、その恐怖を払拭するためならば、ときには人を制裁してもいいとまで思ってしまう人がいる。なぜ他人の関係性を放っておけないかというと、自分の中にもしその感情が芽生えたらと思うのが怖いからです。だからこそアギーレは「薔薇」や「蕾」という表現を使ったのでしょう。アギーレも、そしてイニスの父親も、その感情の「芽」が自分にもあると、ふと感じたことがあったのでしょう。
冒頭に書いた、友人との会話は、オーランドの射殺事件などは、その「恐怖」が関係しているのではないかという話だったのです。
恐怖だけでなく、救いも描かれている
しかし、この映画には救いもありました。それは、その「芽」は恐れるものではないと、ジャックやイニス以外の第三者の男性がちゃんと気づいたシーンがあったからでした。
ここからは、ネタバレになりますが、イニスがジャックの父親に会うシーンがあります。ジャックの口ぶりからは、ロデオ乗りで厳格で自分のことを認めていない父親像が浮かびますが、イニスが会ったときの父親からは、そんな強い父親像を感じさせません。それどころか、ジャックが「ブロークバック・マウンテンに撒いてほしい」と言っていた遺骨を、自分の墓に入れてもいいとすら言っていました。葛藤の末、ジャックの父は息子を受け止める気持ちになったのでしょう。
実は、イニス自身もずっと、自分の中にある「感情」をすべて受け入れているわけではなかったように見えました。だからこそ、ジャックと一緒になるという現実が想像できなかったのでしょう。でも、自分の娘が結婚を報告に来た際、娘が忘れていったセーターを畳んでいたときに、ジャックの気持ちが軽くなったように感じました。イニスはジャックが自分のシャツを大事に持っていたその気持ちと、自分が娘を大事に思う気持ちが、どちらも変わりない愛だとそのときにやっと認められたのだと思います。