ここまでみると、小池氏がリベラル寄りの政策を掲げていることもある程度の納得がいく。小池氏が書く文章にはたびたび「男性も意識転換をするべきだ」と説く記述が頻出する。その一方で、「頼りない男性が増えたから少子化問題が解決しない」とも書いている。その「頼りなさ」とはいったい何なのか。「男らしさ」の喪失なのか。
「ITはもちろん、育児、介護、環境、バリアフリーの都市開発など、21世紀の成長産業には女性の発想を生かせる舞台があります」(フォーブス日本版2001年9月号「日本の景気回復は女性がリードする」)
「現代は、女性のしなやかさが発揮されるe(イー)時代です。エレクトロニクス、エコノミー。エコロジー、エデュケーション、エンプロイメント。いずれの分野でも女性の力が注目されます」(「21世紀は女性のしなやかさが生きる“e時代”」)
「介護現場などで人事不足で悲鳴があがっている。失業した男性も意識転換さえすれば仕事はある。そしてこれらの分野には女性の視点は欠かせない」(「リレーエッセイ オンナが気になる経済のニュース3 21世紀、最初の選択」)
これらは「男性にはない、女性独自が持つ能力」を前提に書かれているように思う。ただし、それが生物学的な性差によるものなのか、ジェンダーによるものなのかはわからない。家事・育児を女性が任され続けてきたのは(押し付けられてきたのは)事実だ。その中で、男性が身に付けられなかった能力を女性が得ているのかもしれない。そしてそれを活かせる場面があり、男性は「所詮女だから」と馬鹿にせずにそれを学ぶべきだということなのかもしれない(しかし「しなやかさ」とはなんだろう)。そうだとして、しかしそこで終始してしまうのはよくない。結局「女性」として「活躍」させられるのであって、「人間扱い」されていないことになってしまうかもしれない(いちいち「女性の活躍を応援」しないで、人間として扱ってください。白紙になった総務省「ICT48」)。
ジェンダーの視点に拘りすぎているのは筆者なのだろうか。小池氏はこうも書いている。
「…要は人材の問題であって、性別の問題ではない。私はフェミニズムの闘士でも、「おんながすべて」論者でもない。日本の強固なおとこ社会が生み出してきたひずみを看過することはできないと憤る一人である。社会や経済の構造、パラダイムを視野を広げて考えると、女性の本格的な活用は自明の理だからである」(リレーエッセイ 女が気になる経済のニュース3 21世紀、最初の選択)
ここまで書いて、行き詰ってしまった。だが小池氏が書いたものを改めて読むと、別の可能性が浮かび上がってきた。彼女は強い自立心を持っている。ただそれだけなのかもしれない。そしてそれを性別に関係なく、すべての人間に求めているのではないだろうか。