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自分の「女性性」を肯定できない、ネガティブ依存のミソジニー脱却

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ナガコ再始動

ナガコ再始動

 性別問わず、人間の心には男性性と女性性の両者が共存している。私がそう考える根拠はといえば、女性である自分自身の精神が男性性に傾倒しがちで、女性性が希薄だと自認しているからである。

 もっとも、あくまでも自認しているだけで、他者評価も同様とは限らない。自分の見解同様「ほとんど男」と看做されることもあれば、「いや、むしろ男女性について気にし過ぎているあたりが、女性性の塊だよ」と言われることもある。そんな時、異様に照れると同時に、自分の所持する憎き女性性を持て余し、気が滅入る。

 時に、自分にはない(少ない)成分の持ち主に惹かれたり、かえって憎んだりすることがあるが、それは相手を思う感情によって自己内の不足を満たそうとする補完活動のようなものだろうか。ならば、当方の「女性嫌悪」は、「スカスカ」と自認する女性性のエリアを埋めるために、自ら生成し続けたセルフメイドの感情と言える。

 他者である女性の言動に対する怒りや不快感は、概ね、彼女に投影された自己内の女性性を拒絶する「自己嫌悪」を兼ねる。いわゆる同族嫌悪であり、明らかに未整備な自己内の女性性を放ったらかしにしたまま、他者女性や女性性を毛嫌いする己の怠慢な態度への「自己批判」の要素も含まれる。

「女性嫌悪」の内罰と外罰

 「女性嫌悪」の正体は不満の自給自足。時に自己否定の自傷活動であり、改善を要するものであることを、私はとうに自覚していた。外罰的な嫌悪感が沸く度に、内罰の罪悪感も滲み出るため、「正しくない状況に陥っている」と察知していたのだ。が、本当の自己との対面が怖いので見て見ぬ振りをし、人様を憎む外罰をますます強化。しかしその実態はただの内罰強化であるため、己を責め続ける苦境より抜け出せない。精神衛生上、不潔である。

 不潔は我慢ならない。よって、長きに渡った逃亡生活に別れを告げ、我がスカスカの女性性をきちんと受容するために掲げた目標の一つが、「好きな男性と真面目に交際する」という小中学生のごとくの恋愛活動である。恋人との関係性において、女性性が活性化する自分に照れたり、気持ち悪くなったりする私の「好きな男性と、付き合いたくない」心情については、前回記した通りhttp://mess-y.com/archives/34265)だ。

 この心理も「女性嫌悪」の一種だが、いくら己の女性性が苦手だからといって、男性との関係性まで放棄することはないだろう。なぜ「好きな男性と、嫌悪感が沸かないように付き合う方法」を模索して来なかったのか。振り返ってみると、恋人と協力し合って「2人にとってベストな付き合い方を一緒に作ろう」とする共同作業の本筋を忘れる勢いで、「最恐の嫌悪感を、1人、全力で拒絶する」活動に執着したのだと認めざるを得ない。

 恋人は、私の女性性を肯定してくれる貴重な存在である。よって嫌悪感を払拭する特効薬となるはずだが、拒絶へのネガティブ依存より抜け出せなかった私は、自ら根本的な解決を遠ざけてしまった。同時に、拒絶の裏にある「本当の自己」の正体も見誤った。

 私が目指すものは、嫌悪由来の自己否定ではない。「己の女性性の肯定」である。本当は「好きな男性との関係性に顕現する女性性を、私は歓迎したいのではないか」。それが本来的な自己受容の正しい姿なのではないか。それとも、やっぱり嫌なのか。自分の本心を確かめるためにも、真面目に恋愛関係を築くことに意欲を出したわけだが―−—−—。はたして、そんな利己的な理由に、他者を、しかもよりによって大好きな男性を、付き合わせてしまって良いものか、と、新たな迷いも生じる。

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林永子

1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。

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女の解体 nagako's self contradiction