「“普通”なんてない」と思うことにした
――コミュニケーションはやはり大切ですね。
杉山 あとは僕自身、2人目が産まれるってなった時に、ふたつの大きなことに気が付きました。ひとつは、自分が「普通はこうだろう」って思ってることは、「普通」じゃないっていうこと。たとえば、「水をこぼしたら拭く」のは当たり前の行動だと思っているけど、水をこぼしても拭かないで乾くまで待つ人もいる。色んな人がいるっていうことに対して、「良い・悪い」で見てたけど、そうじゃなくて「単純に違う」んだってようやく思えるようになったんです。妻と僕の「普通」は違くて、いわば異文化交流、外国人同士のようなものだと考えるようにしたら、随分変わりました。
――自分の考え方を「変える」のって、簡単なことではないですよね……。
杉山 目の前で起きた出来事の捉え方をいちいち変換するんじゃなくて、根本を変換すると変わりますよ。
――根本とは?
杉山 子育てもそうなんだけど、小さい子って「なんで、こんなワケわかんないことするんだろう」って思うような動きをする。そこで「なんで?」と考えたり、大人がわかるように矯正しようとするとイライラするけれど、「あ、子どもなんだし理由なんてねぇや」ってことに辿り着くと、子どもが何をやっても平気なの。何でこんなにご飯こぼすの? とか、何でこんなに片付けないの? とか、何でこんなに笑わせにくるんだ?とか……もう色々となんで? って思うんですけど、3歳くらいまでの子に特に理由はないから。それは実は、相手が大人でも一緒で、職場や外で妻は“大人”をやっているけど、外では自分が苦手なことを頑張ってる分、家に帰ってくると子どもみたいになってワケわかんなくなる。それを矯正しようとしなければイライラしない。
――なるほど。もうひとつは……?
杉山 考え方を変えるのと似ているけれど、「嫁は天才」なんだと思うことにしました。馬鹿と天才は紙一重って言うけど、妻の場合は、「天才」。って、勝手に決めつけておく。だから、僕が理解できないような行動を彼女がして「何でそうなるの?」と苦々しく思っても、彼女からすればその行動は当然なんだ、と思えるようになりました。僕は、自分が天才じゃないと思うから、天才のやり方を理解出来なくて当たり前って。この人天才だから、って見ると全部がすごく見えるっていうか「あ、それ気にならないんだ、やっぱ天才はすげぇな!」って。
――たとえば、どんな状況でそう思うんですか?
杉山 うちの妻は、公園には、まず行かない。汚れるのがイヤだから、です。普通は「子供がいれば汚れるのが当たり前だから、汚れてもいい服装で行こう」の流れになるけど、妻の場合は、汚れる場所に行くために汚れてもいい服を着る、っていうことが理解できない、納得いかないんですね。そうか、それは天才だから仕方ないな、公園はお父さんと行こう! と。
――笑。
杉山 ただその件に関して言えば、実は「理由がない、わからない」ものではなかったんですよね。幼少期の彼女にとって公園が「楽しい場所」ではなかったからなんです。彼女のお父さんは潔癖症だったそうで、公園に連れて行ってくれることがあっても、砂場には菌がウジャウジャいるからってすぐ手を洗って帰らなきゃいけない。そのうち妻は公園に行っても楽しくない、行きたいとも思わなくなった。そんなふうに彼女自身、公園にいい思い出がないから、子供たちの公園に行きたいって気持ちが理解できないのかもしれないです。ブランコも滑り台も全部、彼女にとって「危ない」だけのものとしてインプットされているから。妻にとって公園は「危ない」と「汚い」の塊で、だから行きたくないわけです。だから公園は僕が連れていきます。
――根深い問題だったんですね。お子さんたちが「ママと一緒に行きたい!」ってねだったりは?
杉山 長女は泣いて駄々をこねるようなタイプの子じゃなかったので、おとなしくパパと公園に行ってましたね。でも、下の子のたまちゃんはまたタイプが違くて、やるんですよ、道端で「抱っこぉー!」って大暴れして泣いたりとか(苦笑)。長女はもっと控えめで「抱っこできないよ」と言われれば我慢していたと思います。
――すると奥さんは道端で抱っこをせがみ暴れるたまちゃんをどのように……?
杉山 抱っこするんですよ、それが。長女の時と今とで、接し方がだいぶ違うように見えます。やっと子供が「可愛い」になったんだと思いますよ。もちろん1人目も可愛いはずだけど、妻はとにかく自分のペースがすごく大事な人だから、ペースを乱す人は、自分の子供だろうが何だろうが絶対に許せなかった。年齢と経験を経て、やっと余裕が出てきたのかもしれません。