男女のどちらか一方であると自認する者
以下、「男女性の両方を持つ」と自認している私の超個人的な仮説を述べてみたい。
精子と卵子の結合によって誕生する人間の成分には、そもそも男女性の両者が共存しているのではないか。人間誰しもの精神の土壌にも、「男性性」と「女性性」のスペースがあらかじめ備わっていて、性別、性自認、時代、環境、ジェンダー観の刷り込み等によって、それぞれの容量や密度、バランスが形成されていくのではないか。
男女の性別は、主に肉体の差異によって決定付けられる(男性器がついていれば男として、女性器が内蔵されていれば女として育てられる)。肉体と自らの性自認が合致している場合、人は違和感なく「自分は男である」「女である」と認識する。その際、「肉体の性別判定(セックス)」ではなく、「社会に反映される男女性(ジェンダー)」や、個々の育った家族や集団の環境に由来する、精神性としての男女性も個人の性自認に重要な影響を及ぼす。
これは、肉体も性自認も女である私自身が、いわゆる「女らしさ(ジェンダー)」よりも「男らしさ(育った環境由来の精神性)」を多く含む人間であると自認しているからこその持論である。が、今日日、セックスおよびジェンダーのお仕着せの【男女の型】にはまらない人がいることに不思議はないだろう。
もちろん、【型】にはまる教育が施されている以上、「自分は、その【型】通りの性別と合致する『どちらか一方』しか所持しない」と認識して疑わない男女が多数だろう。自分は男だから、女性性を所持しない。女性性は他者である女性に求める。女も同様に、男性性を所持せず、それを持つ他者男性を求める。たとえば男性が「俺は心身ともに男だ。女性性など一寸たりとも所持していない」と自認している際、仰る通り女性性の成分がない(少ない)ことは、認識として事実なのだろう。しかし、女性性がはなから自己内に存在しないのではなく、社会生活を通過する過程によって育たなかったと考えることもできる。
つまり、【彼】は、性別と合致する「一方」と、対になる「もう一方」を、欠落のブランクスペースとして保有しているのではないか。「もう一方」を持つ女性による補填を待ち受けているのは、実のところ男としての彼自身ではなく、彼の空疎な女性性なのではないか。その空疎さ、心許なさ、不安定さ、欠落意識が「もう一方」を求める吸引力となるようならば、「つがい化」は、欠落を持つ者同士がすんなりと選択しやすい補完関係ではないかと考える。
変容するジェンダー
男性性が満タンな私はといえば、他者男性との補完関係を望まない。いや、補充していただくに値するブランクスペースがさほどないので、望みようがない。逆に充実し過ぎる男性性の積み荷をおろす手伝いをしてほしいくらいだが、プライドが高いせいか、貸しを作るようでそれも気が引ける。
何より、誰かに頼りたい気持ちが生じようものなら、「自分の荷物なのだから、自分で持て。持てない荷物なら、持てる分量まで減らせ。人様に甘えるな」と己を叱咤する声に抑圧され、自力で黙々と完結活動を行うに留まるのだ。
この抑圧の声を発しているものこそが、我が精神の男性性を司る「私の男根」である。女性である私自身と精神の男根は、良くも悪くも自己内でとても仲がいいため、他者との「つがい化」にまるで興味を示さなくなってしまったわけだ。が、これまで「私は、放棄したくて、している」と自認していた選択が、実は「自己内の男性性による女性性への抑圧」によるものだとするならば、私こそもっと己の男女性に柔軟に対応する必要がある。そして、男性との関係性を真面目に築く努力をしてみようとも思うに至る。
とはいえ、依存関係は好みではないし、「ない」ものが特に見当たらないので「ねだれない」以上、私の人生には「ないものねだり」の「つがい化」は依然、不要である。己の不足を己で解消しようとする癖が、今後劇的に治るとも思わない。ただただ、お互いの【個】を有り体に尊重し合う、清潔で対等なパートナーシップを築いてみたいだけなのだが、そんな私を良しとしてくれる男性が現れるか否かは、私が決められることではないので、特に期待はしない。
ただし、抑圧傾向を解消する努力は、それこそ自力でできるはずだ。せめて、光の速度で「いらない」と斬って捨てる前に、「ちょっとだけ、ごねてみる」といった新機軸がほしいところだ。
最後に、改めて「肉体の器のみの性別判定(セックス)」と、「社会に反映される男女性(ジェンダー)」を、一足飛びにイコールで結びつけるべきではないと、我が身を以てお伝えしておきたい。社会とは、常に時代と共に変化する流動的な概念であり、性器の差のような固定的な解を持たない。すなわち後者(ジェンダー)は変容していく。
女性が「女の役割」と固定されていたことだけを行う時代は、とうに過ぎた。同時に男性も、「男の役割」と固定されていたことのみに執着しているようでは、かえって生きづらい。すべての人に柔軟性が求められているのだ。
今のジェンダーの【型】が、現在を生きる人間にとって前時代かつ窮屈なものであるならば、ぶち壊してしまえ。そんな私の言い分を「男らしい」と形容する感想も時に承るが、この多様化時代に「女らしくない女を男らしいと称する、男女の二項対立」を持ち出すこと自体、前時代的で愚かしい。私はいつだって掛け値なく「私らしい」。以上、終了と心得る。
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