この夏、世界中の注目を集め続けている水着と、それにまつわるフェティシズムの話をしよう。ビキニから名前をもらった、見た目はビキニと正反対に体全体を覆い隠しながら、けれどビキニと同じくらいにそれを着る女の身体がフェミニズムの熱い議論の的になるような、そんな水着。ブルキニ(主にムスリム女性のための、全身の肌を露出しない水着。名前はムスリム女性の伝統的ヴェールの一種であるブルカ+ビキニから)の話だ。
ブルキニをめぐる暴力の「明確さ」と「インパクト」
銃を持った大男が、水着を着た女性に向かってそれを脱ぐように脅迫している――ブルキニがFacebookやTwitter上で熱い論争を引き起こしたのは、ひょっとしたらこんなショッキングな写真のインパクトに拠るところが大きい。「私の知ってる文化では、これは性的暴行って呼ばれるんだけど」というつぶやきが何万回もリツイートされたように、この写真は政教分離の原則(ライシテ)と公共秩序の名の下にムスリム女性の自由と尊厳に向けられた性暴力を簡明かつ鮮明に見るものに伝えている。
この写真と「性的暴行」の違いは、脅迫している男たちが警察官であり、彼らはカンヌを始め、多くの公衆海水浴場でいま施行されているブルキニ禁止令に従って水着を脱がせようとしている点だ。こうした法令は疑いようもなく7月14日にニースで発生したテロ事件以降フランス国内で更なる高まりを見せるイスラモフォビア(排外的で暴力的な反イスラム感情)に支えられている。つまり銃を突き付けられた女性は面と向かって「服を脱げ、でなければ殺すぞ」と言われる代わりに――いや、銃を突きつけられるというのはそもそもそういうことだけれど――「服を脱げ、でなければ国へ帰れ」と言われる、ということだ。要するにこれは性暴力であると同時に、排外的なナショナリズムと人種や宗教、文化の違いに根差した差別感情に基づいた暴力である。少なくとも、この写真を見た多くの人は直観的にそう感じた。
ブルキニ禁止令が引き起こした論争が特徴的なのは、ヒジャブ(ムスリム女性の伝統的ヴェール)一般を巡る論争では決して一枚岩ではなかった西洋のフェミニストや自称フェミニスト達が、この法令についてはほぼ全面的にこれが暴力だと認め、強い非難の声を上げたことだ。もちろん怒りに腕を振り上げたのは西洋のフェミニストに限らない。ムスリムを始めとする非西洋のフェミニスト、排外的で西洋中心主義的なイスラモフォビアを批判する人々、自由と平等に基づいた民主的な社会を求める人々(ちなみにたまたまの偶然だがこれはフランスの国家理念でもある)と、多種多様な背景を持った人々が感じた憤りを一つにまとめるだけのパワーと分かりやすさが、この「事件」にはあった。彼女らはSNSや新聞などの主流メディアでこの法令とそれを可能にした土壌を公然と弾劾した。フランスのイスラム系女性団体Smile 13は、フランスのウォーターパークでブルキニ・オンリー・イベントを企画した(なお8月11日に予定されたこのイベントは、実弾と共に送り付けられた脅迫状を理由に、当局によって中止させられた)。また、それまでブルキニの存在を知らなかった多くの人々が、抗議の意を込めて実際にこれを買った。
ヒジャブを巡る、イスラムの文化・社会・歴史は女の主体性を家父長主義的に抑圧してきたのかどうかとか、そもそも西洋的な理解に基づく「女の主体性」を他の文化に押し付けることは侵害ではないのかとか、現在西洋社会のイスラモフォビアのただ中で自らヒジャブを着ることを選んだとき、それは明確な主体性・自律性に基づいた抵抗の行為に他ならないんじゃないかとか、ただ「彼女たちが自分自身で選んだことなので尊重しなければいけない」という考え方もまた個人主義に過ぎやしないか……といった議論――つまり、ヒジャブは女の自由や自律性や尊厳を抑圧するものなのかそれとも体現するものなのか、という議論は、ここで今更繰り返すにはあまりに込み入っているので、こう言うに留めておきたいと思う。「ヒジャブは女の抑圧そのものだ」と主張する人にとっても、「いや、それは女の自律を表しているんだ」と主張する人にとっても、それは(少なくともあなたが当事者でない限りは)最終的にはあなたが決められることではないのだ。もちろんこんな文章を書いている私にとっても。ヒジャブを巡るフェミニズムの論争が根深く、問題含みなのはそういった訳だ。
けれどブルキニの「事件」はほとんど誰の目にとって明らかな暴力だった。ひょっとしたらあまりにもわかりやすく。
先ほど話した写真は、例えばアルジェリア独立運動に深く携わった思想家フランツ・ファノンが1959年に発表した、フランスの植民者がアルジェリア女性の「服を脱がせる」ことを通じていかに国全体を従属させようとしたか、といった議論や、その一年前にアルジェリアで配られた、ヴェールを被った四人の女性の絵に「あなた、綺麗なんだから脱ぎなよ」というキャプションの付いたポスターなどと並べられ、フランスを始めとする西洋社会が、女性解放の美名のもと、いかに自らの目的のためにムスリム女性の身体を利用し搾取し続けてきたかを明確に伝えるものとして、熱を帯びた論争の注目を集め続けた(この辺の話はMusab Younis が8月24日にLRB Blogに投稿した“Racism, Pure and Simple”という記事に詳しい。英語だけど、興味のある方はぜひ読んでほしい)。
ブルキニというイメージへの「フェティシズム」
ブルキニ禁止令は性差別と人種差別に根差した「純粋で単純な」暴力だ、という多くの人の見解に私は全面的に同意する。けれど、何万、何十万という人々が、銃を突き付けられ脱衣を命じられる水着姿の女性の写真を、彼女自身の手の届かないところまで拡散させ、これこそが暴力なのだと、指を差し声高に叫ぶとき、そこにはどこか危ういところはないだろうか。暴力を被り、辱めを受ける彼女の写真を、その意にかかわらず、彼女自身の手の届かない何十万という「私たち」が、暴力の根絶という正義のために「利用」し、「消費」することは、果たして暴力ではないのだろうか(繰り返そう、私はこの事件がそうであるような性や人種の差別に基づく暴力の根絶という意志を心から共有している)。
先ほど私は、この写真にはそれを見る人の暴力に対する怒りを引き起こすパワーとインパクトがあると書いた。インパクトとは、つまりブルキニ禁止令が暴力であることの証拠としての「商品価値」だ。多くの人にその「商品価値」を認められたこの写真が、彼女の手を離れて「流通」し、正当な怒りをもって私たちに「消費」されるとき、それは私たちのフェティシズムの対象そのものになる。
ここでいうフェティシズムとは、私たちが日常的に使うような(首すじ、匂いなどの)特定の対象に性欲を抱くという意味よりはもう少し広く、ブランド品信仰や、「制服を着た女子高生」というイメージのセックス・アイコン化のようなものだ。社会的な交換(商品の売買、SNSでのコミュニケーション、身体への性的な眼差しなど)が行われる中で、交換されるものはその起源から切り離される(ブルキニを着た女性の意を介さず、彼女の写真が独り歩きを始める)。するとあたかもこれ自体になにか魔法のような力が備わっているように信じられ(その写真がブルキニ禁止令や、性や人種に基づく暴力全般を指し示すパワーを持っていると信じられ)、そして誰もがそう信じることで実際にそのように機能するようになる(多くのフェミニストを動かすようになる)――そして言うまでもなく、こうしたプロセスは、交換されるものへの人々の強い欲望や快楽と切り離せない(私たちは、暴力を批判するために、強いインパクトを持ったこの写真を繰り返し繰り返し見ることになる)。
「ブルキニを脱がされる女性の写真」がたどった道筋がこのようなものだとするならば、誤解を恐れずに言えば、これは流行の水着などの「商品」を買うときに起こることによく似ている。例えばビキニの水着を買うときに、どれだけの人が「ビキニ」という名前はそもそも1950年頃にビキニ環礁で行われた水爆実験の「インパクト」にあやかって名づけられたものだ、ということを知っているだろうか? ビキニが商品として売買され、メディアなどでそのイメージが広まっていく(社会的な交換が行われる)中で、ビキニが背負う核実験という暗い歴史は忘れられていく(その起源から切り離される)。ビキニは異性愛の男の性欲の対象に貶められた女性身体を、あるいは女のセクシュアリティの解放を表す「イメージ」となり(魔法のような力を持つと信じられ)、誰もがそう信じることでそのように機能するようになる。このプロセスを支えるのは、セクシュアリティの対象としての、あるいは商品としての「ビキニ」というイメージへの「欲望」に他ならない。
ブルキニ禁止令に対する批判が偽善だと言っているわけではない。こう書くとき私の頭に思い浮かぶのは数年前にSNSを中心に流行したアイスバケツ・チャレンジだ。当時あの運動に真摯に参加し、自分の行動が何らかの変化をもたらすことを信じた人の何割が、あれが正確には何のための運動だったか覚えており、その後ALS治療がどのように進んだか注意を払っていただろうか?(念のために書けば、あの運動はALSの認知およびその治療資金確保という点では概ね成功を収めたと言っていい)そして私たちは、今から数年後、2016年の8月にフランスの海水浴場で振るわれた暴力を、「ああ、懐かしいね」という以上の感情を持って思い続けることができるだろうか? 「ブルキニを脱がされる女性の写真」のイメージをめぐる、SNSやメディア記事を含む反対運動がかなりの程度の成功を収めたことは疑いようがない。こうした運動が、暴力根絶という「正義」に根差していたことも。けれど、私たちが「正義」の確信をもって彼女が被った暴力のイメージを再生産するとき、何らかの「気持ちよさ」に突き動かされていないだろうか――それこそ障がい者をお涙ちょうだい物の売り物にする「感動ポルノ」のように――、そうほんの少し立ち止まって考えてもいいのではないだろうか。
それでもやはりブルキニに向けられた注目はバンドゥビキニに対するそれとは全然違う、という方のために、一つお伝えしておこう――ブルキニ禁止令以降、世界中でブルキニの販売数は大いに増加している。オーストラリアで発祥したブルキニは、考案者のアヘダ・ザネッティが言うように「それを着ることで女性がもっと積極的で活動的になれるもの」として、ムスリムおよび非ムスリムの消費者の注目を集め、「事件」後ますます有力な商品として市場を巡回し続けている(そしてニューヨークタイムズ紙などの多くの記事は、しばしばこうしたブルキニの「本当の」魅力を伝えることで締めくくられる)。SNSやメディアでは、「よく見てみたらこれって、ボディラインや肌に自信のない人にとっては、水着としてかわいいじゃない」なんていうウィットに富んだ意見も出てくることもある。その通りなのかもしれない。でも、そういうことを話していたんだっけ?
(Lisbon22)
【補足】
この記事の初稿が書かれた後の8月26日、フランスの最高裁にあたる国務院は一つの自治体におけるブルキニ禁止令に違憲であるとの判断を下し、これを凍結した。また28日、カズヌーブ内相はブルキニ禁止令を違憲かつ無効であり、国内の緊張を高めるものであると警鐘をならした。しかしこの法令を施行したほとんどの自治体では、こうした判決に不服を唱え、法令撤回を拒否している。(29日19時現在)
参考リンク:https://www.theguardian.com/world/2016/aug/28/french-mayors-burkini-ban-court-ruling?CMP=twt_gu