性教育がテーマなのにもかかわらず、「秘するが花」という言葉を持ち出すのは、性教育を「(主に)男性が女性に対して、いかに性的に興奮できるか」という目線で語っているということだろう。その他にも野々村氏は、「本能」「秘め事」など「性教育とは、セックスをいかにするか、セックスがいかにしたくなるかということである」と捉えられた発言を連発しており「これが元教育者の言葉か」と開いた口がふさがらなかった。
当たり前のことだが、性教育とは、男女のセックスを奨励することではない。街頭インタビューなどで出てきた一般の意見なら百歩譲るとして、元教育者であり、今も教育評論家として活動している人物のおかしな意見を垂れ流しにする番組作りには疑問をもった。
せめてもの救いは、タレントのゲストたちが反論をしていたことと、水道橋博士が番組の冒頭で、「前回(野々村氏がゲストで出ていたのを)見たとき、これが最後だと思ったんですけど」と冗談めかして言っていたことだった。
さらにこの野々村氏は、トイレを素手で掃除することを推奨する運動の実践者でもある。iRONNAに転載された『月刊 正論』(日本工業新聞社)の「あゝ日本もここまできたか…立ちション消えて国滅ぶ」では、「汚れがこびりつき変色した便器を素手で磨くのであるが、磨きながら心も磨く」「高校野球の監督時代、選手に定期的にやらせた」などと述べている。
その上、「立ちション」の素晴らしさを力説した後に、「『男女平等』社会は理想であるが、用のたし方まで男女同じにすることはない。“男女差別”と“男女区別”を同等に扱ってはならない」「良く生徒に語りかけたのは、『男は男らしく、女は女らしく』」と書き、「オスとメスとしての意地を通すことは、人生の面白味を増す。中でも男は、リスクを背負いながらも、打算ではなく“粋がって”男らしさを演出する生き物(者)でありたい」とまで言っている。
性教育を受けないことで生じるリスクを受けるのは男性だけではない。暴力的なセックスによって傷つくのはパートナーだし、女性であれば妊娠のリスクもある。パートナーは、男性が「男らしさを粋がって演出」できるように、そうしたリスクも背負わないといけないとでもいうのだろうか。
今回、野々村氏が登場したのは「坂上さんがすぐに(野々村氏を)呼ぼうということになった」ということだそうだ。対立を煽り炎上しそうなコメントを引きだして視聴率を上げようとするのは、テレビの常とう手段であるが、おかしな言説をなんら批判もなく取り上げるような手法にテレビ局はいつまで頼っていくのだろう。
(福田美代子)
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