過去にも『悪人』でタッグを組んでいる、吉田修一原作・李相日監督による映画『怒り』は、見終わったあとにずしりとくる作品でした。
登場人物の機微が丁寧に描かれている
物語は、ある夫婦が惨殺されたところから始まります。その現場には、「怒」という血文字が残されていました。それからしばらくして、犯人は山神一也という人物だとわかりますが、山神は整形をして逃走していました。警察は現在の山神の姿を予想した写真をテレビ番組で公開し、情報を募ります。そんなとき、千葉の漁港に突然現れたアルバイトで生活している田代(松山ケンイチ)、沖縄の離島にひとりで暮らす田中(森山未來)、東京で優馬(妻夫木聡)という男と出会い同居生活をしている大西(綾野剛)という三人が、その素性のわからなさ故に、周囲の人々から次第に山神ではないかという疑念を抱かれるのでした。
今年は、映画の当たり年かと思いますが、この作品も二時間以上の間、緊張感を持って見られるよい作品でしたし、なにより俳優たちの演技を堪能できる作品でした。また、さまざまな人間関係や気持ちの変化が丁寧に描かれていたのも個人的にぐっときました。
例えば、通信会社に勤めるエリートサラリーマンの優馬。彼は、金曜の夜や休日を遊びの予定で埋め尽くしながらも、そんな日々をどこか楽しめていない人物でした。しかし、日々の空虚さを覚えていた優馬が、謎の多い大西と出会ってからはなんでもない時間を過ごすことを慈しみ始めるようになります。その気持ちの変化の描き方は、なにか他人の話だとも思えないくらいの現実味がありました。
また、沖縄の離島から無人島まで泉(広瀬すず)をボートに乗せてくれる辰哉(佐久本宝)の、泉に対して一定の距離感を保っている感じは、それだけで泉の心を許させるものであることを短いシーンで描ききっていました。あるいは、家路に向かう愛子(宮崎あおい)が田代を振り返って見ているシーンからは、気持ちが動いているのだろうなと伺い知れますし、娘の愛子と田代が幸せになってほしいと願いながらも、一時的な感情に過ぎないのではないかと疑ってしまう父親の洋平(渡辺謙)の気持ちも丁寧に描かれていました。原作では、登場人物それぞれの心の声が書かれているのですが、映画では、わざわざセリフにしなくても観客に伝わるように再現されているのがわかりました。
ただ、映画の前半が、この作品のテーマのひとつである「人を信じること」を丁寧に描いていたからこそ、ちょっと残念に思うこともあります。それは、信じる気持ちにそれぞれ陰りが出てきてからの展開と、『怒り』という作品における「怒り」とはなんだったかというものに対してです。
※ここからネタバレを含みます。
それぞれの「怒り」にある共通点
映画の前半では、原作から残すべき部分とカットする部分のバランスは完璧に見えたのですが、後半ではバランスをやや崩していたように思います。
映画鑑賞後に原作を読んで、この作品の「怒り」には、共通点があることに気づきました。それは「取り巻く環境や社会を変えられない」という、どうしようもない「怒り」です。
例えば優馬は、ゲイであることを自分では認めていても、ふとした瞬間にそれを隠してしまうことに気づきます。それは、大西を試したり傷つけるときにより強く感じるものでした。優馬が自身に向ける「怒り」は、自分を取り囲む社会に一人では抗うことができないことが根源になっています。
辰哉は、自分の父親が土日になると那覇でデモをやっていることに対して、こんなことで世の中が変えられるのだろうかという疑問を持っています。この「世の中が変えられるのか」という疑問は後に辰哉を苦しめます。そして辰哉は、ある事件によって泉を取り巻く状況が変わったときに初めて、たとえ世の中を変えられなくても、じっとしてはいられないほどの「怒り」があることを知ります。
また洋平は、娘の愛子がかつて東京の風俗店で働いていたことが近所の人に知られていて、好奇の視線にこれからも晒されながら生きていかないといけないことに対しての恐怖と憤りを感じています。そして世間が娘の愛子を(そして女を)見る視線は、洋平一人では、どうにも変えられないという「怒り」を感じています。
三者がそれぞれ抱いている怒りや疑念は、それを発散したとしても、世の中と、自分や自分の大切なものに対する視線が何も変わらないのではないのかというジレンマを持っていることが共通していたと思うのです。
映画では描かれなかった泉の行動
この「どうにもならない怒り」をどのように昇華させるのかは、中盤に泉に起こる出来事がひとつの分岐点になっていたと思います。
その出来事に生まれた泉の「怒り」や悲しみもまた、自分ひとりではどうにもならないものでした。もちろん、勇気をもって立ち向かうことはできても、それによって泉が失うものは無数にあります。また、洋平が娘の愛子が晒されている世間の目から感じる恐怖と同じ類の恐怖もあるでしょう。
映画、小説の両方で、そのどうにもならない「怒り」を、泉の代わりに辰哉が爆発させることになります。しかし、映画版では、辰哉は自分の個人的な「怒り」をぶつけただけに過ぎず、泉のために世間を変えられる結果にはなりませんでした。
ところが原作では、泉自身が、辰哉が「怒り」を爆発させた動機を知ったことで、辰哉の正当性を少しでも理解してもらうために動き出します。そのことによって泉は自分が傷つくことになるのですが、自分のことを信じてくれた人を、自分自身も信じることで、泉自身も前向きになれたのではないかと思えました。それは、映画版とは違った形で、希望の光を感じられる結末であったのではないかと思います。私が後半でバランスを崩していると感じたのは、原作には書かれていた、この泉自身の「怒り」に対する自発的な行動の部分が描かれていなかったためなのです。
対極にある「怒り」をもっと描いて欲しかった
導入部分で映る壁にかかれた「怒」という文字は、この映画における「怒り」がなんたるかを示しているかのように見えます。しかし文字で書かれた「怒」は、わかりやすく視覚として印象には残りますが、実際にその文字を書いた山神の「怒り」がどのようなものであったのかは、最後まで実態が見えなかったのではないかと思います。
もちろん、映画の中での山神の「怒り」は、虐げられて生きているものが他人から蔑まれたときに感じる「怒り」であるとは描かれています。これは、現代でもよく見る、ルサンチマンに起因するものではないかと思います。もちろん、誰しもルサンチマンを感じることはあるけれど、それだけで、山神のように犯罪で昇華してもよいものなのか。優馬や洋平や辰哉の、どうにもならないやるせなさに比べると、文字で示された「怒り」は空虚にも感じました。
小説版では、山神について、かつて作業現場で一緒に働いていた早川という男が、こんなことを供述しています(早川は映画版にも出てきますが、このセリフはありません)。
「……要するに、そういう、なんていうか、生と死っつーんですか、その境が曖昧な奴って、もう終わってますよ。自分にもないわけだから、もちろん相手にだってないわけで。だって、自分がいなくなるのと相手がいなくなるのが同じなんだから。だったら自分殺せって話っすよ。で、そういう奴に限って苛つきだすと何やるか分かったもんじゃないでしょ」
このセリフを見て、文字で示された、いかにも念のこもっていそうな山神の「怒り」の軽さと、洋平や優馬や辰哉や泉の感じている、どうにもならない「怒り」が、対極であるように思えてきました。
現在、世間をにぎわすいたたまれない事件は、山神のような空虚な「怒り」によるものが多いようにも見えます。その軽さが理屈ではなく、衝動や気分であるからこそ、理解できず、恐怖を感じるわけです。
映画化が難しいであろう原作をここまでの作品に仕上げたことは、今のままでも十分に評価されうるとは思います。ただ、どうにもならないけれど深い「怒り」と、すぐに爆発させることのできる空虚な「怒り」、この二つの対比がもっと描かれていたら、個人的にはより深く心に残る映画になったのだろうなと思ってしまうのでした。
(西森路代)