女性映画が日本に来ると…?
皆さんは最近、ツイッターでこんなハッシュタグが流行したのをご存じでしょうか。
#女性映画が日本に来るとこうなる (Togetterまとめもあります)
こちらのハッシュタグは、1910年代に英国で選挙権を求めて立ち上がった女性たち、とくに労働者階級の活動家の姿を描いた歴史映画Suffragetteの日本語タイトルが、『未来を花束にして』に決まったことに端を発するものです。‘Suffragette’は英語で女性参政権運動家を意味する言葉で、戦闘的な活動家を指す時によく使われます。日本の配給会社は、これを映画の内容が全く想像できない題名に変更しました。さらに女性の力と連帯を強調するような広報が行われていた英語版に比べると、非常に感傷的なイメージで宣伝を行いました。これを見て怒った人々が、海外の女性映画が日本に輸入されるといかにセンスがなく性差別的な宣伝が行われるか例示したのが上のハッシュタグです。
このハッシュタグから見えてくる日本におけるマーケティング慣行は興味深いのですが、一方で私がひっかかったのは、そもそもこのハッシュタグを見て「女性映画」って何? と思った人がけっこういたらしい、ということです。ファンや研究者の間ではよく使われる表現ですが、その外では意外に知られていないようです。実はこれをきっかけに私はウィキペディア日本語版に英語版からの翻訳で「女性映画」の記事を作ったのですが、せっかくなので今回はこの言葉の来歴を説明したいと思います。
「女性映画」とは?
「女性映画」と言った場合、通常は女性が主要な登場人物で、女性観客をターゲットにしている映画ジャンルを指します。この他に監督や脚本家が女性である、という意味を含んで使われることもあるのですが、多くの場合は作った人の性別より内容とターゲット層でジャンル分けします。
女性映画は映画の黎明期から作られており、世界に広く存在しますが、あまり高く評価されているジャンルではありませんでした。1974年にフェミニスト映画批評の嚆矢である『崇拝からレイプへ-映画の女性史』を出したモリー・ハスケルは、女性映画に対する批評家の冷遇や、男性監督のキャリアにおいて女性映画が低く見られてきたことをいろいろな例をあげて分析しています(pp. 194–197)。ハスケルは「女性映画」という言葉が存在すること自体が映画界における性差別のしるしであると鋭く指摘し、「男同士の関係に焦点をあてた作品が、軽蔑的に“男性映画”などと呼ばれることはなく(中略)、“心理ドラマ”と称される」(p. 190)とジェンダーの非対称を指摘しています。たしかに世の中は男性が主人公の映画で溢れていますが、それが「男性映画」と呼ばれることはありません。どうも映画界にとっては人類のデフォルトは男性であり、女性は別ジャンルにしないといけない例外であるようなのです。
映画批評などの分野で、日本語なら「女性映画」、英語なら‘Woman’s film’というような言葉は長きにわたり漠然と使われてきていましたが、体系的な批評に値するジャンルとして扱われるようになったのは1970年代から80年代にかけてです。この時期にフェミニスト映画批評が大きく発展し、1930年代から40年代頃のハリウッド製女性映画が注目されるようになりました。具体的にはキャサリン・ヘップバーンやベティ・デイヴィスなどの女性スターが出演している映画や、少々時代がズレるところもありますがジョージ・キューカーやダグラス・サークなどの監督が作った映画を想像していただけるといいでしょう。
前述したハスケルをはじめとするさまざまな研究者が女性と映画の問題に取り組みましたが、最も有名なのは1987年に刊行されたメアリ・アン・ドーン『欲望への欲望-1940年代の女性映画』です。この研究はそれまで映画研究においてもっぱら見られる対象と考えられがちであった女性を観客としてとらえ、「女性的主観性」「女性的まなざし」(p. 57)といった視点を導入する画期的なものでした。
しかしながら、女性が観客として重視されていたからといって、女性映画がフェミニスト的であったとは限りません。ドーンいわく、この時期の女性映画は「家庭生活、家族、子供、自己犠牲、女と生産との関係、さらにこれと対立する者としての女と再生産=生殖との関係にまつわる諸問題」(p. 4)をしばしば扱っていました。こうした主題は女性の関心事を丁寧に扱える一方、女性を家庭に押し込めるような陳腐な道徳観を強化してしまう可能性も孕んでいます。今でも面白く見られる作品がある一方で、女性にとって幸せな人生は恋愛と結婚のみであるというような画一的な価値観を押しつける物語を紡いだり、ヒロインが自己犠牲により誰かを助けてお涙頂戴で終わるなどのおきまりのモチーフに頼ったりする女性映画もあります。また、同性愛嫌悪や人種差別が見受けられたり、中流階級中心的であったりすることもあります。
こうしたマイナス要素とプラス要素が絡み合っているため、女性映画には一筋縄ではいかないものも多くなっています。例えばベティ・デイヴィスがアメリカ南部の令嬢を演じる『黒蘭の女』(Jezebel, 1938)は最後に自己犠牲のモチーフが出てきますが、ちょっとビックリするような落とし方なのと、デイヴィスの演技が強烈なので、あまりステレオタイプな印象は受けないかもしれません(この映画の結末がフェミニスト的かどうかは判断が分かれると思うので、是非ご自分で見て判断してみてください。非常にドラマティックでよくできた映画であることは間違いないので、オススメできます)。また、『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind, 1939)や『イヴの総て』(All about Eve, 1950)は今もなお色褪せない偉大な女性映画だと思いますが、前者は人種差別、後者はレズビアンに対する偏見が鼻につくところがあると思います。
現在、そして未来の女性映画
最後に、女性映画の現況と今後について二点解説……というか私の切なる願いを書こうと思います。
まずはより良いマーケティングへの期待です。女性映画というジャンルはマーケティングにおける女性観客の地位と切り離すことができません。消費社会の誕生とともに女性が映画の主要な観客として想定されるようになり、また第二次世界大戦で軍務のため男性観客が減少することが懸念されたため、1940年代にはマーケティング上の安全策として多数のハリウッド製女性映画が作られることになりました(ドーン、p. 6)。
日本でも似た事情があります。日本は溝口健二や成瀬巳喜男、木下惠介などを輩出した女性映画大国であり、撮影所としては松竹が女性映画を多数作っています。松竹は1920年代から女性映画を商業上の重要分野としていましたが、ミツヨ・ワダ・マルシアーノの分析によると、これは都市圏の中流階級が発達し、その中で女性が有望な消費者として位置づけられるようになったからです(pp. 122–123)。良質な女性映画を長きにわたって生みだしてきた日本においていまだに女性観客のニーズが認められず、輸入物の女性映画が適切に宣伝されていないのは悲しむべきことだと思います。ロマンティックな可愛い映画は楽しいですし、私も好きですが、ロマンスが主要テーマでないような映画をことさらにロマンティックに見せかけ、「どうせこうすれば女性に売れるんでしょ?」というような態度で宣伝することはお客にウソをついているのも同前だと思います。内容が宣伝からわからないので本来なら映画館に来てくれるような観客に届かなくなりますし、一方でロマンティックな映画が好きな観客にとっても、楽しく気軽に見られる作品だと思ったら社会派のキツい話だった……というようなことが起こりかねないので非常に迷惑です。今後はもっと、所謂「ダサピンク」的にならず、必要としている層に届くような女性映画マーケティングを日本の洋画配給部門に模索してほしいと思います。
二つめは女性監督の地位向上です。歴史的に女性映画は男性の監督や脚本家によって作られることが多かったのですが、パトリシア・ホワイトと斉藤綾子の言葉を借りると、現状では女性映画を考える際に「女性のための映画から、女性が作る映画へ」のシフトが起きていると考えられます(p. 284)。ヨーロッパ資本の映画では女性監督がかなり活躍しており、トルコの女性監督デニズ・ガムゼ・エルギュベンが撮影し、今年日本公開された『裸足の季節』(2015)などは、こうした女性による女性中心の映画という意味での「女性映画」と言えるでしょう。しかしながら状況は良いわけではなく、レクシー・アレクサンダーやアニエスカ・ホランドのようなヨーロッパ出身で国際的に活動している女性監督は、自分たちが映画界で受けている性差別について率直な批判を行い、女性は男性に比べて制作のチャンスがもらえないと述べています。
アメリカに目を転じるとさらに状況はよくありません。2014年の調査では、アメリカの映画界において女性監督が関わっている映画はたった15%ほど、売り上げの良い250本に限ると7%ほどだそうです(詳しくはこちらの『ヴァラエティ』の記事をどうぞ)。日本でもそれほど見通しは明るくないようで、スタジオジブリの元幹部が女性監督に対する差別発言で世間を騒がせたのは記憶に新しいところです。私は男性監督が作った女性映画も出来の良いものならどんどん見たいし好きな作品もたくさんありますが、もっと女性が女性の経験を撮った映画を見たいし、女性監督が男性監督に比べて冷遇されている状況は改善すべきだと思っています。女性が撮った女性映画が今後、さらに隆盛することを期待しています。
参考になりそうなウィキペディア記事
[[女性映画]]…この連載記事に備えて私が日本語版ウィキペディア用に英語版から翻訳しました。
[[チック・フリック]]…こちらもこの記事に備えて私が翻訳しました。「女子映画」的なものを指す英語のスラングです。
[[ベクデル・テスト]]…映画における女性の位置づけをはかるためのテストです。これも以前、私が日本語版ウィキペディア用に英語版から翻訳しました。万能テストではないのであまり役に立たないこともありますが、面白い試みではあると思います。
参考文献
メアリ・アン・ドーン『欲望への欲望-1940年代の女性映画』松田英男監訳(勁草書房、1994)。※英語初版は1987年。
テレサ・ド・ローレティス「女性映画再考―美学とフェミニスト理論」斎藤綾子訳、岩本憲児、武田潔、斎藤綾子編『新映画理論集成1 歴史/人種/ジェンダー』(フィルムアート社、1998)、142–175。※英語初版は1987年。
モリー・ハスケル『崇拝からレイプへ-映画の女性史』海野弘訳(平凡社、1992)。※英語初版は1974年。
パトリシア・ホワイト、斉藤綾子「アートシネマとしての女性映画-トランスナショナル・フェミニズムとニッチ映画」『言語文化』23 (2006): 265–286。
ミツヨ・ワダ・マルシアーノ『ニッポン・モダン-日本映画1920・30年代』(名古屋大学出版会、2009)。
ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」斎藤綾子訳、岩本憲児、武田潔、斎藤綾子編『新映画理論集成1 歴史/人種/ジェンダー』(フィルムアート社、1998)、126–141。※英語初版は1975年。
斉藤綾子「フェミニズム映画批評の変遷と実践」竹村和子、義江明子編『ジェンダー史叢書3思想と文化』明石書店、2010)、251–274。
福田京一「メロドラマと女性映画の研究史素描(その1)」『SELL: Studies in English Linguistics & Literature』30 (2013): 159–196。
Sue Thornham, ed., Feminist Film Theory: A Reader (Edinburgh University Press, 1999).