「死んでまで男であることを責められるのか」
杉田 子どもがNICUに入っているときに、看護師さんの何気ない言葉にダメージを受けて一人で泣いたことを思い出しました。出産当時、連れ合いは休職中だったので毎日NICUに通っていたんですけど、僕はヘルパーの仕事をしていたので隙間を見て行ける日は面会に行くようにしていました。そのときに、看護師さんが子どもに「お父さんがやっときてくれたよ、よかったね」って言ったんです。つまり、「普段は面会に来ないお父さんが来た」ってニュアンスで。仕事もやって、空いている時間に出来るだけ面会に来ているようにしているのに、そういう風に見られるんだ、ってショックだった。
子育て本って、「父親はいかに育児参加しないか!」みたいなものばかりじゃないですか。かといって、イクメン系の本だと、仕事も子育ても楽しんでいる、スマートでカッコイイ父親というイメージが強すぎる。いざ育児となったとき、そのどちらかの極端なモデルしかないんですよね。もっと中間にある、ぐずぐずな感情とか、疲れ果てている父親の曖昧な気持ちを掬い取るような言葉が、社会にあんまり用意されていない。その言葉を増やしていくことが大事なんじゃないかなと。
荒井 僕、いちいち噛み付いていた時期がありましたね。「子育て、手伝っていますか?」って聞かれたら「手伝ってません、うちは完全に分担ですから」って(笑)。手伝うって、どちらかが主でどちらかが従じゃないですか。なんで男性ってだけで、副次的な存在として扱われなくちゃいけないんだ、と。僕も育児疲れで病んでいたんでしょうけど(笑)。
――あえて聞きたいのですが、おふたりが育児で苦悩されていて、弱音を少しでも吐露したときに、「それを女性がずっとやってきたんだよ」と言われたことはありますか。つまり、おふたりの弱音を無効にするような言葉を投げかけられたことはあるのでしょうか?
杉田 どうだったかな……。本の最初に書きましたが、子どもが発達障害で生まれ、その後、妻が逃げてしまった男性がいました。その方は高齢者介護のケアマネをしながら、育児をしていた。発達障害があって、登下校にちょっとトラブルが生じることもあって、うちの事務所に通学の相談があってその方を知ったんですけど、結局自殺しちゃったんですね。そのときに職場の女性たちが「もっと頼ってくれたらよかったのにね」「男の人ってそういう価値観から逃れられないんだね」って言っていて、それがすごくショックで。「死んでまで男であることを責められるのか」って正直思いました。死って、ずっと吐けなかった弱音が貯まりに貯まって、「もう駄目です」ってところまで行ったってことじゃないですか。それでも「残された子どもがかわいそう」「男の人はそういうときに弱い」とかいわれてしまう。強烈な違和感がいまもあります。ただ、でもそうだなあ……うーん……難しいですよね……。
荒井 うちは3人家族で、誰か一人でも風邪を引くと全部が止まってしまうんですね。だから体調を崩すことが申し訳ないという気持ちがあります。僕の仕事が忙しかったときに、「疲れて無理だから今日は早く帰ってきて欲しい」と妻にお願いしたら、「つらい思いをさせてごめんなさい」って泣いて謝られたことがあるんです。申し訳ないことをしてしまったな、と思って。批判されたら喧嘩出来るかもしれないけど、自分が弱音を吐くことで相手を傷つけたり悲しませてしまう状況にまで追い込まれてしまうことがある。そういうしがらみの中で、でも自分は強くないし、痛いことは痛いし、苦しいことは苦しいと自分で認めてあげられる語り方や言葉はどこかにあってもいいはずです。杉田さんの本は、そういう言葉を探していると思うし、今後どうなっていくのかとても楽しみです。
内なる叱咤激励が自分を追い詰める
杉田 男性問題は3部作の予定で、この本がある程度売れたら続編が出せるはずです(笑)。
荒井 それは楽しみです。
杉田 ただ書けば書くほど自分が追い込まれていくテーマなので……。次は今回2章と3章の間にいれる予定だった男の性暴力について書くつもりです。僕にとって性暴力はとても重要なテーマなので。
でも改めて難しいですね。今日話していて思ったのが、僕は自分の弱音について語ろうと思ったのに、「女性は何百年も~」とか「障害児のお母さんは~」とか、自然と別の視点から語ってしまっていました。僕が障害者支援をしてきた人間だからかもしれませんが、そういう回路が出来てしまっているのかもしれない。これって過労死寸前まで働いている人が、「苦しいけど、部下はもっと苦しいんだ」とか「上司も頑張ってるんだから……」っていうのとあまり変わらないのかもしれませんね。
荒井 「励ます」と「追い込む」が隣り合わせですよね。「もっとつらい人間がいるんだよ」は励ます一方で、「もっと頑張れ」ってことになる。
杉田 それを内面化して、内なる叱咤激励になってしまう。女性の話も、政策の話も、自分の痛みや苦しみを話すことも、もっと自然に往復出来ればいいと思うんですけどね。リベラルなものとラディカルなもの、両方が必要なんだと思います。