「母親なんだから、自分が産んだ子どものことを愛さなければ」「いろいろ大変なことはあるけど、家族なんだからうまくやっていかなければ」――こうした「家族」にまつわる固定概念は、しばしば人を追い詰めるものです。それでもなぜか私たちは「家族」は当たり前のもので、大事にしなくてはいけないと考えてしまいます。いったい「家族」とはなんなのか? 村田沙耶香『タダイマトビラ』(新潮社)は、家族というひとつの「システム」への疑問を描いた、衝撃的な作品です。
主人公・在原恵奈の家庭は、いわゆる「機能不全」の家庭です。父親はおそらく外に愛人をつくり、家にはめったに帰りませんし、母親は、実の娘である恵奈と、恵奈の弟である息子を愛していません。というよりも、愛することができないのです。家事を放棄することはないものの、それは彼女にとってはただの義務でしかありませんでした。「なんで皆、自分の子供のこと、そんなに大切なんだろうね」「あたしにはぜんっぜん、わかんないや」と笑う彼女は、「よきお母さん」とはかけ離れた存在です。ですが、そんな彼女自身、「普通の母親」からは当たり前に湧き出てくるはずの「子への愛情」というものが欠けていること、そして、周囲からかけられる「母親らしく、産んだ子を愛さなければならない」という圧力に苦しみながら、日々を過ごしています。
恵奈の母親は、『タダイマトビラ』のもうひとりの主人公と言うべき存在です。産んだ子どもを愛せない彼女自身も、幼いころに母親からの愛情を受けられず、そのことに長らく苦しんできました。しかし周囲は、「産んだ子に愛情を注がなければならない」という「当たり前の事実」で、彼女を追い詰めます。「皆、おかしいよ。思い込みが激しすぎるよ。私は、二人がもっと大人になるまでは、気が合う人なのかどうかもわかんないよ」という彼女の言葉は、ある意味で正しいはずなのに、すでに確立されたシステムに疑いを持たない人びとには受け入れられない。「家族」というシステムに最も苦しめられてきた存在として、恵奈の母親は描かれているのです。
娘の恵奈も、母親のそうした気持ちには同調しており、母親に対する態度もいたってドライなものです。「私たちだって、たまたまお母さんから出てきただけじゃん。だからって無理にお母さんのこと好きになる必要ないでしょ。お母さんも、私たちがたまたま自分のお腹から出てきたからって、無理することないよ。そんなのって、気持ち悪いもん」。
ですが、恵奈は、「家族」を求めていなかったわけではありません。彼女には、ある特別な習慣がありました。周りに隠れて、ひとり「カゾクヨナニー」と名付けた行為に耽るというものです。恵奈は、現在の家族に対しては諦観していますが、自分を無条件に愛する存在に受け入れられたいという欲求――恵奈はこれを「家族欲」と呼びます――は、強く感じていました。弟の啓太は家族に反抗することで、愛情への飢えをアピールしている様子でしたが、恵奈は、自分でその欲求を処理することにしたのです。「家族欲」の「オナニー」だから、「カゾクヨナニー」。「ニナオ」と名付けた自室のカーテンに包まれ、理想の家族にするように甘えることで、恵奈は自分の心を満たします。足りないものがあるときは、こうやって「工夫」すればいい。家族の愛に包まれているというふうに「脳を騙す」ことができれば、何も問題はないのだ――恵奈は弟のように、自身を取り巻く「現実」に変化を求めるということはしません。「工夫」し、「脳を騙す」ことによって、自身が受容する、自分にとっての「現実」を組み替えているのです。
ある日、恵奈の家を、伯父夫婦が訪問してきます。久しぶりに対面した伯父から投げかけられたのは、「遺伝はすごいな。二人の血を受け継いでいるなあ、恵奈ちゃんは」「こんなに在原家の顔をした子はいないからな。女は血を繋いでいかないと」という、恵奈にとっては呪いのように聞こえる言葉でした。後日、今度はひとりで訪ねてきた伯母に、恵奈は思わず「家族ってなんだと思いますか?」と口にします。返ってきたのは、「ほんとうに嫌なこともいっぱいあるけどね。毎日、顔をつきあわせて、折り合いをつけながら一緒に暮らしていく、時を重ねていくってことよ。一緒に生きていくって、綺麗なことばかりじゃない。大変なことのほうがずっと多いけれど、それでもやっぱり、たまにはいいこともあるのよ」という答えでした。他人同士で暮らしていく以上、合わないこともたくさんある。それでも一緒に折り合いをつけて(恵奈はこれも「工夫」のひとつだと捉えます)毎日を暮らしていくということが、「家族」なのだと、伯母は言います。
伯母の話す「すこぶるまともな」家族観と、その先に待つ伯父の「在原家の血」という言葉。女は血を繋ぐために、母親にならなければならない。子どもを産んだのならば、母親としてその子を愛さなければならない。人と暮らすうえで困難なことがあるのは当然なのだから、「家族」を成り立たせるために努力し続けなければならない――こうした「まっとうな」意見は、恵奈の、そして母の胸を軋ませるものでした。
家族システムという「ファンタジー」
恵奈は、自分が今いるここは「本当の家」ではない「仮の家」であり、いつか必ず、「本当の家」を手に入れるのだと、しかるべき異性と恋愛をし、理想の家庭を築くことを渇望しています。「『本当の家族』とは、血なんて理由ではなく、私だからという理由で選ばれるということだ。『本当の恋』をして結婚すれば、“自分たちの子供だから”ではなく“私だから”という理由で自分を探し出してくれた人と共に家を作ることができる」――そんなふうに「本当の家」に焦がれ、いくつかの恋愛を繰り返しながら高校生になった彼女は、浩平という男子大学生と付き合うようになります。彼こそ、家族としてともに暮らすのにふさわしい存在だとみとめた恵奈は、浩平との関係を深め(彼の「恋に恋している」態度にうんざりしつつも)、ついに彼から「結婚しようよ」という言葉を引きだします。長年求めていたものを手に入れ、幸せの絶頂であるはずの恵奈。しかし彼女の胸に広がるのは、「本当の家」に対する疑問でした。
「本当の家」なんて、ほんとはどこにもないんじゃないだろうか? 家族になるというのは、皆で少しずつ、共有の嘘をつくっていうことなんじゃないだろうか。家族という幻想に騙されたふりして、みんなで少しずつ嘘をつく。それがドアの中の真実だったんじゃないんだろうか。
そもそも「本当の家」とは何なのか、そんなものが本当にあるのだろうか? いびつな家で苦しみながら頑張り続けるということが「家族」ということなのだろうか?
「本当の家」に向かってひたすら進み続けてきた恵奈にとって、胸に沸き起こった疑問に足を止められるのは、致命的なことでした。アパートには、浩平が幸福そのものといった表情で待っている。胸に顔を埋め、恍惚の表情を見せる浩平に、恵奈はある事実に気がつきます。恵奈がニナオをカゾクヨナニーの道具にしていたように、浩平もまた恵奈をカゾクヨナニーの道具にしている。伯母が「一緒に工夫して暮らしていくこと」と言った「家族」というシステムは、ヒトがヒトでカゾクヨナニーをするシステムだったのだ――自分が「家族」に失敗したことを感じた恵奈は、新たな「工夫」をする決意をします。「家族というシステムの外に帰ろう」。そして彼女は、ずっと「家族」に苦しめられてきた母親を連れ、一匹の生命体として、そのシステムが生まれる前の世界に「帰って」いきます。
この、突如として空想の世界に飛んでしまうようなラストについては、賛否が分かれるかもしれません。それまで「現実の」問題をなぞるように進行していた「小説内の現実」が、そうした問題を生むシステムそのものを消滅させる形で、「ファンタジー」の世界へと跳躍してしまう。現実逃避ともとれるこの結末は、恵奈たちと同じように、「現実」に家族というシステムの問題に苦しめられている読者たちにとっては、何の解決にもならないものです。ですが、この小説で、明確で正しい、「現実的」な解決策が示されていたとしたらどうでしょう。「いびつな家で苦しみながらも、工夫を重ねて頑張り続ける」という「まっとうな」価値観――しかしそれこそが、恵奈や、彼女の母親を追い詰めてきたものではなかったでしょうか。
さらに、この「現実」から「ファンタジー」への跳躍は、もうひとつ重要なことを私たちに示します。それは、「現実」と思われていた家族システムもまた、人の手によってつくられたひとつの「ファンタジー」であるということ。そして同様に、カゾクヨナニーや恵奈の跳躍をはじめとするファンタジックな「工夫」がなされた世界もまた、ひとつの「現実」だということです。突如として「家族というシステムの外に帰ろう」と「ファンタジー」の世界に跳躍しようとする恵奈は、家族から「病気」であると見なされます。しかしそれは、恵奈にとっての世界=「現実」と、周囲にとっての「現実」の不一致によるものです。周囲の人びとが囚われている家族システムという「ファンタジー」も、その人びとにとっては「現実」であり、ここで「現実」と「ファンタジー」の二項対立は、存在することができなくなります。
また、ここでの「現実」は、「本物の」「本当の」という言葉で言い換えることもできるでしょう。恵奈が執着した「本当の家」、これもまた恵奈が求めたひとつの「現実」であり、同時に「ファンタジー」でもあります。そして同時に、「いびつな家で苦しみながら頑張り続ける」という生活も、「現実」であり「ファンタジー」でもある。「『本当の家』とはなんなのか、そんなものが本当にあるのだろうか?」。その問いに答えるとするならば、すべての家が「本当の家」であり、「本当の家」などというものはどこにもない――そこには、個人それぞれの「現実」があるだけなのです。
村田沙耶香の小説を、「ファンタジー」と評する方は多いかもしれません。しかし、彼女の描く世界は、ただの「ファンタジー」では断じてない。ただひとつの「現実」に囚われた私たちの手を引っ張って、別の「現実」へと連れ出してくれるというものです。そして本を閉じ、息をついた私たちが見る「現実」を、本を開く以前とは確実に変えてくれる。『タダイマトビラ』は、そういう力強さを持った本だと、私は思います。
(餅井アンナ)