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「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」、っていう、フェミニズムで一番よく知られたモットーを書いたのは誰だったっけ? 「ジェンダーは日常的な慣習や振る舞いといったパフォーマンスを通じて作られるんだ」と主張したのは? 「二人の男が一人の女を巡って争っているとき、彼らは実はその女を口実に、ロッカールーム的な男同士の絆を確かめているんだ」と解き明かしたのは?(そう言えばどこかの国の大統領候補が、自分の性的暴行についてのミソジニー丸出しの発言を「あれはロッカールーム的なボーイズ・トークなんだ」なんて言い訳をしていましたね)「現代に生きる私たち、とりわけ現代の女は、ある意味でみんなサイボーグなんだ」と説いたのは?
もしあなたがフェミニズムの理論に興味を持っているなら、このクイズに答えるのはそう難しくないかもしれない。上に挙げたのはどれも20世紀後半のフェミニズムで一番重要な理論のエッセンスをすごく乱暴に要約したものだから(一応この記事の最後に答えを書いておきました)。
でも実は、今あげたことの全部を、彼女らよりずっと前に書いた鮮やかな短編小説があることは、SF好きの人以外にはそれほど知られていない。それは1944年にアメリカのパルプSF作家C.L. ムーアが書いた「ノー・ウーマン・ボーン(No Woman Born)」(邦訳は『ロボット・オペラ』(光文社)などに収録)という作品だ。
といっても、この小説は小難しい「理論」によく一致しているから偉い、なんて言ってるわけじゃない。この小説が凄いのは、一人のSF作家が女としての経験や当時の社会での生活から抱いた問題意識から生まれた物語が、当時の政治理論や社会理論ではまだ語る言葉を持たなかった、ジェンダーやセクシュアリティに関する重要な問いを、鋭く照らし出していることだ。まるで作者自身がタイムスリップしてきたみたいに!
そしてこれこそが、前回記事の最後に投げかけた問いの答え、つまりSFという言葉がフェミニズムにとって重要なポテンシャルを持つと私が考える理由なんだ。SFには、今はまだちゃんと語る言葉をもたない、けれど女やジェンダーやセクシュアリティにとって重要な問いを、私たちを楽しませ、驚かせ、目を啓かせる物語の形で語る力がある。ムーアの小説を読むことは、そんなSFの力を感じることだ――そしてひょっとしたら、今の私たちですらまだ語りえる言葉を持っていない、未来のフェミニストたちが闘う問題に気付き始めることなのかもしれない。
女に生まれるわけじゃない:C.L. ムーア「ノー・ウーマン・ボーン」
物語の登場人物は、一人の女サイボーグと彼女を巡って争う二人の男。世界的に有名な、「その不完全さゆえに誰よりも愛された」アーティスト・デアドラは、火災事故で身体を大きく損傷し、唯一無事だった脳を「人間以上に完璧な」ヒューマノイドの身体に接続されたサイボーグとして生まれ変わる。自分が(まだ)人間だ、と主張する彼女は、それを証明するためにパフォーミング・アートの舞台に復帰することを熱望する。これに反対するのは、彼女の義体を設計した、彼女を機械だと見なす科学者マルツァー。二人の対立と、それにも拘わらず存在する奇妙な「結婚よりも強い」絆を見守る、元マネージャー・ハリスの目には、彼女は思い出の中の姿と新しい機械の身体のあわいで移ろいでいるように映る(物語は彼の視点から語られる)。
特訓の甲斐もあり、復帰公演は「人間以上に完璧な」ダンスと歌で飾られ、観衆の大歓声の中、デアドラは自分自身を証明したように思われる――が、それもつかの間、「彼女は自分がもう女じゃないって分かっているんだ」というマルツァーの言葉に予言されたかのように、公演後なにか強烈な不安に襲われる。これにより「怪物を作り出してしまった」という絶望を深めるマルツァーに対して、けれど彼女は語る。自分は人間以下の機械なのではなく、人間以上なのだと――「だけど、私みたいな人が他にいてくれたらって思う。マルツァー、私は寂しいんだ」。
お察しいただいたかもしれないけど、この話は前回紹介した『フランケンシュタイン』を下敷きにしている。正確に言えば、これは「フランケンシュタインの怪物」とは女の物語なんだと読んだ、最初のフェミニズム作品の一つだ。
タイトルの “No Woman Born” は、詩人ジェイムス・スティーヴンスが書いた、アイルランド神話に登場するもう一人のデアドラに寄せた詩から抜粋されたものだ。 “There has been again no woman born / Who was so beautiful … (あんなにも美しい女はついぞ生まれることはなかった…)”。だからこの小説は、「美女ありき」という訳題が与えられている。けれど小説を読み終えた私たちは、この記事の冒頭で挙げた “One is not born a woman, but becomes one(人は女に生まれるのではない、女になるのだ)” というフェミニズムのモットーに倣って、これを「女に生まれるわけじゃない」と誤訳してみたくなる。というよりもこのタイトルは、「他に生まれることのない(くらい美しい女)」、そして「女は生まれついてなるものじゃない」というダブル・ミーニングなのだ。
この物語では、デアドラが人間なのか否か、という問いは、彼女が女なのか、というのと全く同じ意味だ。「彼女には性器がない。彼女はもう女じゃないんだ」、だから人間じゃない、と言うマルツァーに対し、ハリスは「彼女は変わらず愛らしいままだ」と言い返す(ところで「彼女はもう女じゃないんだ(“She isn’t female anymore”)っていう台詞は色々矛盾していて興味深い。彼女がもう生物学的身体のレベルでは女ではないのなら、マルツァーにとって機械である彼女を「それ(It)」ではなく「彼女(She)」と呼ぶのはどういうことなんだろう?)。
ハリスという男の視点から語られたこの物語では、男/女のカテゴリーに分けられないモノは人間としてカウントされない(サイボーグというのが荒唐無稽に思われる人は、出生前診断でXY染色体「異常」が発見された胎児が、男女に「産み分け」られる生殖テクノロジーを思いうかべればいい)。だからデアドラにとって舞台に復帰することは、女として認められることを勝ち取る闘いに他ならない。女は生まれるものじゃなく、なるものなんだ、というわけだ。この「女性性」というのは、振り向き方、歩き方、といった、家父長制によって決定された「女らしい仕草」によって身体につけられた意味であることを、女優であるデアドラはよく理解している(最近だと、男性メンバーのみから成る「宗像市都市再生プロジェクト専門家会議」によって提言された「女子力大学」なんかはこのいい例だろう)。だから彼女は言う。「何も心配してないわ。(…)今までずっと観客に与えてきたものは、まだちゃんと与えることができる。ただ今までやったのよりずっとバラエティに富んで、深いものになるだけよ」。
小説の肝は、デアドラがこの「パフォーマンス」を余りにも完璧に、「普通の人間」では不可能なくらいにやり過ぎてしまい、それが一種グロテスクなものになってしまったことだ。けれどこのグロテスクさの源は、そもそも彼女が――そして「女」たちみなが、常日頃から「女らしさ」の振る舞いを期待され、強制されていること、そしてそうした振る舞いを「真似する」ことを通じて「女らしさ」の意味が逆算して作られていくというプロセスそのものが、余りにもグロテスクであることを、彼女の過剰なパフォーマンスが暴き出すことにある。この意味で、デアドラの女らしさのパフォーマンスは、ドラァグのそれに極めてよく似ている(ドラァグについては、ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』や『問題なのは身体だ』、特に「パリは燃えている」についての章に詳しい。というかお気づきの方も多いと思うが、ここまでの話の大半はバトラーの「理論」そのままだ)。
興味深いのは、こうした「パフォーマンスとしてのジェンダー」という考え方は作者ムーアにとって何か高尚な理論から得た知識ではなく(繰り返しになるけれど、「ノー・ウーマン・ボーン」は『ジェンダー・トラブル』(1990)の40年以上前に書かれたのです!)、彼女自身が生きた経験だったっていうことだ。
大学で英文学を学んでいたムーアは、30年前後の世界恐慌のせいで学問を諦め、秘書として働き始める。タイプライターに馴染みのなかった彼女は自宅でタイピングの練習をしなければならず、それが執筆活動の源になった(だから例えば彼女の代表作「シャンブロウ(Shambleau)」の登場人物名などは、当時の職場や取引先のアナグラムだったりする)。パルプ作家としてデビューした時には、当時SF業界が非常に男性中心的だったこともあり、キャサリン・ルシールという女性名じゃなくC.L.という性別不詳のペンネームを使った。これを男と勘違いしてファンレターを送ってきた同じくSF作家のヘンリー・カットナーと結婚。その後は彼と合作で多くの小説を書いたけれど、彼の方が原稿料が高かったので(恐らくは男だったため)、時々彼の名前でゴースト・ライティングをしたりもした。つまりムーアにとってSF小説を書くことは、生きていくためにジェンダーをパフォームすることと分けられないことだったのだ。
それと同時に、「ノー・ウーマン・ボーン」が書かれた第二次大戦期は、軍産複合的なプロテーゼ(身体の欠損を補う義眼などの人工物)技術の発展と、戦闘により障害を負った帰還兵の「男らしさ」の危機を背景に、「プロテーゼというテクノロジーによって『より完璧になった』身体」、というイメージは非常に強いジェンダー的な意味を帯びたものだった(この辺の話はローズマリー・ガーランド・トムソンらのフェミニスト障害学の研究に詳しい)。
要するに、「ジェンダーをパフォームする女サイボーグ」というのは、作者ムーアにとって荒唐無稽な空想なんかではなくて、個人的にも歴史的にも、どこまでもリアルな経験だったのだ。
(ちょい脱線。SF好きの人なら、「女性的感性を持った男性作家」と思われていたジェイムス・ティプトリー・Jrが、実はアリス・シェルドンという女性だった、という有名なスキャンダルを思い出してるかもしれない。じっさい「ノー・ウーマン・ボーン」は、ヒューゴー賞も受賞した、1973年ティプトリー作の短編「接続された女」(『愛はさだめ、さだめは死』(早川書房)に収録)によく似ていて、SF批評では並べて語られることが非常に多い。こちらもいい作品ですよ)
この小説は同時に、この記事の冒頭で挙げたような、20世紀後半以降のフェミニズムにとっての重要な議論――つまり、クィア理論だとか、サイボーグ・フェミニズムだとか、フェミニスト障害学だとか――を、ほとんどそのまま予言するようなものにもなっている。興味深いことに、サイボーグ・フェミニズムの創始者であるダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」は、多くのフェミニストSFに言及しながら、なぜかこの作品に触れることはない。ひょっとしたらそれは、この小説があまりにハラウェイの議論そのまま過ぎて、これを読めばハラウェイの話を読まなくて済んでしまうからかもしれない! だから多くのフェミニスト理論家は、折に触れこの小説を彼女らの主張に従って読み替えていった。
けれどその中で、少なくとも幾つかの有名な論文を調べた限りでは、一つだけ触れられていない、重要な、そしてちょっと危ういポイントがある。それは、この小説は穿った読み方をしたとき、デアドラは彼女の「敵」であるマルツァーを愛しているんじゃないか、って印象を与えるように書かれていることだ。
「自分は人間=女なんだと認めてほしい」というマルツァーに向けられた彼女の叫び、ハリスが感じる二人の「奇妙な、冷たい、情動のない、けれど結婚よりも強い絆」、「私は彼(マルツァー)のものじゃない。彼はそれを、私を、所有してるわけじゃない。法的にも、それから…」と奇妙に口ごもるデアドラの姿、それから小説を締めくくる、「私は寂しいんだ、マルツァー」という言葉。もちろんこれは基本的には、自分と同じサイボーグの存在がいない、という彼女の孤独を意味している。けれど小説のラストで、彼女が自分を「世界に一羽しかいないので、自分を燃やして生き返る形でしか再生産できない」フェニックスに例えるように、デアドラは自分の孤独を、何か抽象的な人との繋がりや、女同士の連帯が築けないことじゃなく――彼女は「世界に一人の女」としての自分を証明しようとしているのだから――、異性愛的再生産という枠組みで捉えているように思われる。
そしてその時、この小説は、「自分を女だと認めてほしい」デアドラと、さっき書いたような葛藤を抱えながらも、彼女を「自分が作り出した機械であって女ではない」と考えるマルツァーの、悲劇のラブ・ストーリーに姿を変えてしまう。これは一見非常に反フェミニスト的な読みにも思える――だからこそ多くのフェミニストは、この読みをあえて飛ばしてきたんだろう、たぶん。けれど私たちは、この二人の「語られない愛」を考えることでこそ、フェミニズムにとって重要な問いを考え始めることができるんだと私は思う。例えば、自分を「作り出した」ジェンダーやテクノロジーという権力を、それでも/それゆえに愛してしまうことの意味。あるいは、二人の関係を嫉妬するハリスという男から語られるこの物語に――そして私たちの社会全体に潜む、男女の繋がりや緊張関係を、どんな時でも異性愛の枠組みでしか捉えられないバイアス。
「ノー・ウーマン・ボーン」は、日本ではここ最近マイナーなSFの中でもさらにマイナーなパルプ・フィクションというジャンルに属していて、その重要性の割に特に現代日本では十分な読者を得ているとは言いづらい。けれどこの記事を通して少しでも伝えたかったように、彼女のビジョンは、彼女にとって未来のフェミニストがようやく語り始めた問題を、鋭く照らし出している。繰り返しになるけど、SFにそんな力があるのは、このジャンルが単なる荒唐無稽な空想じゃなくて、現実の社会にしっかり根差した問題意識に基づいた、 “What if” (でも、もし~だったら)という想像力に駆り立てられてるからだ。じゃあ次回記事以降はいよいよ、もっと近年のSF小説を取り上げてみよう。
(Lisbon22)
冒頭のクイズの答え:
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(『第二の性』)、ジュディス・バトラー(『ジェンダー・トラブル』)、イヴ・セジウィック(『男同士の絆』、ダナ・ハラウェイ(「サイボーグ宣言」)。