科目指導以外の業務にこれだけ労力や時間がとられていては、教員のワーク・ライフ・バランスはおろか、科目指導力向上のために自主的に勉強したり、自らの文化的素養を養うような余裕もなくなっていきます。このような教員の現状は公立学校で学ぶ子どもたちにとっても直接的・間接的にネガティブな影響を及ぼすことになるでしょう。教員を5万人も削減すれば、すでに「官製ブラック企業」となっている労働環境が、さらにブラックになり、教員になりたいと思う人はますます減り、教員になっても続かないという人はさらに増えるはずです。
加えて、学校以外に頼る場所がない子どもたちに最も大きなしわよせがいき、学ぶ機会をはく奪するようなことにもなりかねません。
日本が公教育に支出している予算は国際的に見ても少ないのが現状です。それでも日本の子どもたちの学力が非常に高いのは、塾や習い事など私教育にかける時間やお金が多いからです。つまり、各家庭で子どもの教育に力を入れることが当たり前になっていて、公立の学校教育にはとても頼れないと親たちが考えているのです。しかし、生活困窮によって塾や習い事ができない子どもたちにとって、学校は学ぶ機会を得、同世代の子どもたちとともに社会性を身に着け、より広い社会について学び、家族以外の大人と接点を持つことのできる、ほぼ唯一の場所です。
教員を削減するというのなら、政府一丸となって「公立学校に求めるもの」を変えなければなりません。学校を「科目指導だけが行われる場所」にしないかぎり、教員を奴隷か馬車馬のように酷使する以外に学校を維持する方法はありません。しかし、それは学校以外に頼る場所のない子どもたちから行き場をはく奪することにも繋がります。貧困は、学力、努力に対する姿勢、文化的素養、社会とのつながり方など様々な点で困窮状態にある子ども達をむしばみますが、彼らに対して学ぶ機会や社会的居場所を提供するための最も効率的な方法は公立学校なのです。
「教員の厚意・良心」に頼り、ブラック労働を前提として「少子化で教員が余るから教員を削減する」というのはおかしな話です。まっさきにするべきは労働環境の改善であり、その後、本当に教員を削減する必要があるのかを考えるべきなのです。
繰り返しますが、今回の事件の問題点は「性行為を強要された」点にあります。犯罪行為を行った男性教諭を擁護することは出来ません。一方で、今回の事件を、「けしからん」と男性教諭を叩くだけで終わらせるのではなく、教員のブラック労働の現状について考えるきっかけにすることが、より建設的なのではないでしょうか。