もしかしたら母親は皆、私のようなふつうの、未産婦時代と変わらない言葉を普通に家では吐いてるかもしれない。でも、彼女たちは世間でそれを微塵たりとも見せないのだ。見せてはいけないことになっているから。
別に、うんこをまき散らすことを「汚い」と表現したっていいではないか。
顔にミルク吐かれた時に「おいおいまじかよ」と言ったっていいではないか。
本当に、その瞬間に「ごめんごめんっ(泣)」なんて思ってるのか??
赤ちゃんが苦しんでる状況であればイレギュラーだが、健康な状態の粗相を一瞬で「あらあら(微笑)」と柔らかく受け入れるその心の器は、母になって間もないというのにどのタイミングで手に入れたアイテムなのだ?
そもそも、特に生後間もない頃、産後の疲れも取れない中でほとんどまとめて眠れずに世話してる時に、その余裕は持てない。でも、余裕のない姿は、見せてはいけないことになっている。
私には幸い、心に浮かんだ本音のみで和やかに語り合える友人がいる。彼女も経産婦だから、指しゃぶりの音が本気でイライラするとか、その時の舌の動きが動物的で見てて不快だとか、「あるある」「わかるわぁ」という具合に共有することができた。正しくないことを認め合えるって、大事だ。同じように感じている友人の存在に安心したし、「赤子ってまぁこんなもんか」と心が少し楽になったりもした。
正しいお母さん文化で満たされた場所(授乳室とか、施設のベビールームとか)や、正しいお母さん文化を強制される場面では息苦しいけれど、日常生活で「自分はお母さん失格だ」なんて思わない。ルールに従う気なんてないからだ。だから、「育児とは世の中的にこうでないといけない!」のルールに従って生きている母親たちは、私なんかよりずっと苦しいんじゃないかとすら思ってしまう。
ふんわり聖母じみたお母さん文化を強制してくる人は、かつて赤ちゃんを産み育てた女性たちもだし、おじさん、おばさん、育児経験のない若者、老若男女関係ない。だってオムツCMを見てもわかるように、広告がもう、そうだから。「お母さんはこういうものですよ~」というイメージが、みんなの中にばっちりインプットされてしまっている。お母さんと子供が描かれたイラストも、お母さんと子供を写したイメージ写真も、どれもこれもそう。ちょっと立ち止まって、「お母さんってそういうもの」の固定概念を疑ってみてほしい。
あなた達、夜間の工事の音を「煩い」って言うでしょう?
夏場のごみ箱を開けて「臭い」って言うでしょう?
「赤ちゃんをごみ箱と一緒にするなんて!!喝喝ッッ!!かぁーーつッ!!!」と聞こえてきそうだが……別にごみのように捨てるとは言ってないではないか。愛してないとは言ってないではないか。
世の中に出回っている、新米ママ向けのメッセージで「肩の力を抜いて、楽にもっと育児を楽しんで☆」というものをよく目にする。でも肩の力を抜くってどういうことなのか。本当に肩の力を抜くのなら、臭いもんは臭い。煩いもんは煩い。そう言っていいはずだ。母親は目の前の子供の世話で肩がガチガチなんじゃない。正しいお母さんイメージに沿えているかどうか、正しいお母さんをやれているかどうか不安で、肩に必要以上の力が入ってしまうのだ。