退院前日、耐えきれなくなった私は、助産師・Sさんに心の内を明かした。周りの母親たちが「出ない」とか「痛い」とかで日々気軽に相談している中、同じように苦しかった私が何日もやり過ごし限界近くになるまで相談できなかったのは、「気持ち悪い」=「何だそれ?!母としての自覚あんのか!」……みたいな、母乳育児が当たり前のこの“世間”から除外されるのが怖かったからなのだと思う。
Sさんは大きくうなずき、こう言った。
「そういう人も居るのよ、決してあなたに母性がないとかではないの。辛かったね、気づいてあげられなくてごめんね」
授乳室の“いわゆる聖母”“いわゆる天使”ばかり見てきた(勝手にそう映った)私の目の前に、本物の天使が現れたように思えた。そして、Sさんはこう続けた。
「母乳だから良い・ミルクだからダメ、ってわけじゃないの。赤ちゃんじゃなく“あなたが”今後どうしていきたいかを一番大切に考えましょう」
育児はこれから長い道のり。固定観念にとらわれムリな選択をすることで、母親にとって育児が苦痛になってしまうことが一番怖い、とのこと。だから、少しでも笑顔で育児を楽しめるように、そんな余裕のあるお母さんのもとで赤ちゃんがすくすく育つように、自分に合ったやり方を選ぶことが大切なのだ、と何度も優しくそして力強く、話してくれた。
この時に、心の中を覆い尽くしていた暗い洞窟のような景色に、一気に光が射し、母として生きていく未来が少しだけ見えた気がした。
「自分自身で選択していいのだ」という思いが芽生えた私は、退院してからも敢えて、何度も「母乳育児」に挑戦した。辛いのだから辞めればよい話なのだが、Sさんの言葉によって、もしやはりダメでも「自分には母性がないのだ」いう考えには直結しない自信があったからこそだ。
1日に2度はチャレンジする。でもそれ以上は頑張らない。もしかしたら慣れていくこともあるかもしれない……。
ここまで来ても完全ミルクに切り替えなかったのは、やっぱりこれから「母親文化」の中で生きていくのに母乳育児のほうが何かと不便しないだろう、と認識していたからだと思う。
チャレンジ中に鳥肌だらけになって断念している私を見て「あんたが嫌でも○○(息子)が美味しいならいいじゃない」と実母が言った。誰よりも理解者であってほしかった実母からの言葉は、まるで悪意はないのだが、散々苦しんだ末にいまがあった私に取っては、鉄パイプで頭を殴られたかのような思いだった。大げさな表現に思えるかもしれないが、それほどに、自分にとってはデリケートかつ一番の切実な問題だったからだ(ちなみに母は、母乳の出もよく1歳半頃まで完全母乳で私を育てたそうだ)。
母の言葉は「あなたの苦しみと引き換えに子供は幸せ(美味しい)を手にすることができる」ともとれる。粉ミルクが不味いもので赤ちゃんにとって苦痛だというのならわかるが、今の粉ミルクは栄養も豊富で味も良く作られているはずだし、息子は産院で産まれた直後から粉ミルクをゴクゴクと飲んでいたのだから、それで十分「幸せ(美味しい)」はずだった。それでも私たちは、赤ちゃんが本当はどう感じているとか何を考えているとか誰もわからないから、「母乳=共同体・幸せ」「粉ミルク=母子の切り離し」みたいなイメージによって、勝手な判断をしているんだと思う。
母だけではなく、出産祝いに駆けつけてくれた親戚や知人からも、「あれ? 母乳はあげてないの?」という言葉をよくかけられた。それに対して「吸われるのが気持ち悪くて……」と正直に話せた相手は古くからの親友ひとりだけだった。他の皆には「母乳の出が悪くて……」と、母性はあるけれど一般的によくありそうな母乳トラブルで致し方ないという主張を、まるで「うまくいかなかった」かのような顔をして話した。そんな自分に、嫌気がさした。
また、産後訪問に来る保健師からも開口一番「どうですか? おっぱい出てる?」と、当たり前のように投げかけられた。誰も「母乳育児をしています」と話した覚えはないのに、母乳が出るならやっぱり「あげるのが当たり前」という前提がある。そのことが、そのときの私には辛かった。母乳育児じゃない母親は「失敗した」「残念だった」という方向の思いを抱かなくてはならないようだった。
母乳を与えないことにここまで後ろめたさを感じてしまうほど、世間全体が母乳育児推奨文化なわけだが、ネット上で色々と調べてみると、妊娠中に母乳育児を希望する母親が約9割なのに対して、実際に出産してからの割合は完全母乳4割・混合3割・完全ミルク3割程度だという。産まれてからは何かと事情が変わり、混合やミルクを選択する母親も多いということだ。私のような乳首のトラブル、母乳量が増えない、母親が薬などを飲まなければならない状況になるなど、または産後早くに社会復帰しなくてはならない場合や、赤ちゃん自身が乳首を嫌がるなど……。
完全母乳を希望していたが、途中から混合または完全ミルクに切り替えざるをえない状況というのは、「よくあること」なのだ。この「よくあること」に該当する母親たちが、ゴリ押しされる「完全母乳育児」に疲弊して、育児そのものを苦痛に感じてしまう可能性がある。母乳育児を「よかれと思って」推進する前に、そのことも考えてみてほしい。