連載

無自覚な性差別を強化する広告は、そこに描かれた「人間」を見る者もまた「人間」であることを失念している

【この記事のキーワード】

当事者の主体を隠すな

 現在の広告屋が対面しているのは、媒体の確保や旧来のクライアントワーク、役所のPR課内の擦り合わせのみではない。「人間」である。特にインターネットユーザーは、双方向的なコミュニケーションに慣れている。広告もコンテンツも記事も私論も、すべて情報と看做し、SNS等での拡散や反応を介して人々と交流を行う。よって「人間」を無視した一方的な情報提供の方法論は、嫌われやすい。

 また、情報と人間、ユーザー同士の距離が縮まる交流過程において、各情報に現れる人物像との距離も近づく。好きなタレントやモデルといった実在の有名人のみならず、映画やドラマの主人公、虚構の二次元キャラ、その作者、匿名希望者等、インターネット上の日常で遭遇する人物像に身近さや愛着(時に粘着)を感じやすくなる。

 つまり、ユーザーは情報の中の人物像を、自分と距離の近い人間として見る。その前面に“広告”“虚構”と書かれていようとも、背面も含めた全体像が人間として不快ならば、「雑に扱ってくれるな。不快だ」と述べる。同時に、不快な描き方をする広告主や制作当事者にも、「人間性を疑う」と苦情が寄せられる。曖昧模糊としたイメージの印象操作は「胡散臭い」。そもそもユーザーはインターネットの利用者であり、特定の広告の消費者ではない。よって、利益誘導や話題性獲得のための広告メソッドをゴリ推しするPRは「おまえの商売のカモ扱いするな」と叱られる。

 良くも悪くも個々の人間性が丸出しになっている状況において、登場人物の女性をわざわざ貶める一方的な脚色が未だまかり通ると思っているのは、「人間」との距離が遠く、旧来の広告メソッドとの距離が近い広告屋のみだ。広告屋が残念女性像を担ぐのは、メソッドの慣習においては正当化されているからである。つまり、広告屋以外の人間には無効である。

 登場人物を貶め、辱める事態に無頓着でいられる者は、社会の格差や差別にも無頓着である。意識的・無意識的と関わらず、女性蔑視観をもつ者は、男性優位社会に慣れた男性のみとは限らない。冒頭の事例の中には、女性が指揮を執った案件も含まれている。

 明確な意志をもって蔑視する者もむかつくが、性差別の観点を疑わない無頓着さが性差別への加担を招く、無意識的なケースが個人的にはもっとも質が悪いと考える。なにより、当事者性が不明瞭なうえに、自覚も覚悟もない。ついでに責任も回避するゼロサムゲームの方法論が薄気味悪い。

 私は当事者である主体を隠さない。よって、最後に、冒頭に記した『若い女性を主人公に起用した広告・PR(中略)への批判が吹き荒れる昨今』の一文に訂正を入れたい。他人事を写生する記事文として「批判が吹き荒れている」と記したが、私は能動的に批判を行う当事者である。正しい表現は、「私が、批判を吹いて、荒らしている」となる。

 その他諸々、手前勝手な持論を展開しているが、私には執筆当事者としての自覚と責任がある。自分事の主体性を社会全体の森に隠し、「私が」の主語を「(その他多勢の)批判が」へとすり替え、社会の実状として発言する方法論は、言責を放棄したうえで自己正当化を企てる卑怯者の逃げ口上と心得る。

 もっとも広告は言論とは異なる大規模な宣伝媒体であり、大人の事情も守秘義務も生じる。さまざまな立場、セクションの人材が多勢集うグループワークである以上、誰か1人が責任を明示したくともできない状況は理解する。しかし、責任を明示しようがないからこそ、主体性を隠して責任回避して良し、当事者性も自覚も薄らぼんやりしたままで良しとする風潮がまかり通るようならば、一言お伝え申し上げたい、「大きな広告の森に隠れてんじゃねえよ性差別野郎、表に出ろ」と。

 この混沌とした情報化社会にて、「私は」、「捉え方はユーザーひとりひとりの解釈にお任せする。が、当方が責任と自信をもって発表する持論はこれだ」と記す。主体性を明示したうえで堂々と我が意を放つ。それが現代の情報発信者の誠意だ。

1 2 3

林永子

1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。

女の解体 nagako's self contradiction