初愛、純愛、友愛
まく 杉田さんは『宇多田ヒカル論』を男性問題に引き付けて振り返るとどんなことを思いますか?
杉田 そうですね。僕の評論は「宇多田ヒカルという女性の感じ方・考え方を、男性的なロマンティシズムに回収していないか?」という点が気になっています。僕の宇多田論ってロマンティックすぎませんか? つまり、恋愛に対する「男によくあるロマン主義」の夢を女性に対して投影していないか。たとえば人は誰かを本当に愛せるのは一度きりかもしれないとか、好きだった人が遠く離れていっても忘れられないとか……何というか『世界の中心で愛を叫ぶ』っぽい、男性によくある感傷的なナルシシズムを正当化していませんか。その辺、率直にどうでしたか? 宇多田さん自身の中には以前から非ヘテロセクシュアルな側面があるし、また非人間的(ULTRA)な感覚の強い人だから、単純な男女差のバイアスで考えると、それも違うとも思うんだけど……。
まく 「男によるあるロマン主義」に乗せて描き過ぎている、ということですか? うーん、どうなんでしょう……。まず、確かに『宇多田ヒカル論』には、次のようなモチーフがあったと思います。
どんな人でも、愛する人を最初の一瞬しか愛することはできず、以降はその瞬間から遠ざかっていかざるを得ない。あるひとりの人を好きになって気持ちを伝えて、仮にその気持ちが受け入れられて長く一緒に暮らし、どちらかが死ぬまで添い遂げたとしても。やはり愛する一瞬は最初のそのときのみで、以降は同じようには愛せず、ずっと遠ざかるのみである。どんなに再び愛したいと思っても。
こういう愛を指して、「初愛」という言葉も出てきていましたね。他にも『Fantome』(2016年)について書かれている第六章では「友愛」という言葉も出てきています。これらの「愛」が、男たちが寂しさに向き合う際のヒントになると思うんですね。
杉田 「初愛」は田中ユタカさんという漫画家さんの言葉ですね、僕が好きな。
まく 田中ユタカさんが、どんなかたちでこの「初愛」という言葉を使ったか聞いても良いですか?
杉田 田中さんはエロマンガの作家さんなんですが、特に短編作品では「永遠の童貞」とか「永遠の初夜」を描いている感じがあるんです。たとえ肉体関係を経験しても童貞のまま、処女のまま、初夜のままというか。男性的な観念やロマン性なのかもしれないけれど、それが反復され、研ぎ澄まされていて、ある種のすごみがある。全く違うように見えて、宇多田さんの感覚に実は近い面もあるのかもしれない。それが「初愛」の感じかなと。
まく 僕は正直、その「初愛」の感覚がわからないんです。ただ、「純愛」を求める気持ちはある。僕も失恋の経験がありますが、そのとき好きだった人を「あの人を愛していた」と振り返れないんです。しかも、いま僕は身近な家族も愛していないのではないか、冷たい感覚しか実は抱けていないのではないか、という自分への疑念があって……。どこまで言っても自分が寂しい「寂しがり屋」のナルシストなのかな、と思うんです。だからこそ「純愛」に憧れがある。本当に人を愛したいなって思う。でも、それは自分には一生無理かもしれないとも思う。それで愛を求めてしまう、そんな「ロマン主義」を僕は持っていると思っています。
杉田 失恋の相手に対しては「好きだったけど、愛してはいなかった」という感じなんですか? 振り返ると。
まく いや、これは言うのが恥ずかしいんですが……。「周りもみんなお付き合いしているし、僕も誰かとお付き合いした方が良いのかな」みたいな感じでお付き合いを始めて、それでうまくいかなくなって別れた、という感じでして……。
杉田 いまのお話だと「誰も愛していないし、一生誰も愛せないかもしれない、ゆえに純愛への憧れが募っていく……」という感じなのかな。確かに宇多田さん的な恋愛観とは結構違うかもしれないですね。先ほど少しお話になった『Fantome』は、受け止め方によっては「別にロマン的な恋や愛がなくても、友愛によって生き延びていくことができる、世界を花束で彩れる」という作品ではないか、という気もしますがいかがでしょう?
まく ええ。「友愛」の話は、とても面白かったですねえ。『Fantome』のところで書かれていた「友愛」って、世間でいう所の友だちとか、友情とも、違うものとして説明されていましたよね?
杉田 そうですね。必ずしも親密な友情には限らないし、ホモソーシャルな男友達関係に対してはアルバム全体を通して基本的に批判的です。僕はそれを「幽霊的な友愛」と呼びました。死んだお母さんや二度と会えない他者たちとすら、友達としての関係を新しく結び直す、というモチーフをも『Fantome』は含んでいるように思えたんです。
まく それは「戦友」とも違うと書かれていましたね。何か共通の経験があるとか、何かを共に乗り越えたとか、それを通じた情感を伴う関係にも限らない、と。
杉田 薄く浅い関係でもいいわけです。ほんの少しすれ違うだけの関係とか。それらも等しく友情たりうると。
まく 「家族みたい」とか、「友だちみたい」とか、「恋人みたい」とか、「友だち以上恋人未満みたい」とか、それらの言葉でも言い表せないような、誰かに惹かれる感覚のことを「幽霊的な友愛」って呼んでいるんですよね、杉田さんは。それが、すごく大事なモチーフだと思ったんです。色んな人との出会いや関係、別れの中で、世間では言葉になっていないような新たな感覚を得ているかもしれない。それらの言葉では表せないような、微妙なものがそこに新たに生まれているのかも、と。
……ああ、さっき僕があっさりと割り切ってしまった、過去の失恋の関係も、実は色んなものがあったんだろうなあ。いま、そんなことを思いましたよ。
杉田 失恋した相手との間にある種の幽霊のような友情を感じること、それが「正しいサヨナラの仕方」なのかもしれないですよ、たとえその人と二度と会えなくても。
まく 寂しくて、ついつい若い女性との関係ばかりを求めてしまう、とか。そういう平板な関係でしか、どうしてもイメージできない自分、そうやって寂しさを埋めてしまう自分の価値観を、問い直してくるような様々な出会いや別れに対して、僕たちは心と身体を開けるか。そのように準備をしていこう、と宇多田さんの歌が呼びかけているように感じました。本当にそれが可能かどうかは、実生活で試してみないと、わからないですけども……。
杉田 なるほどね。僕も『Fantome』論のパートを書きながら、ヘテロ男性としての自分の生き方や恋愛観が新しい次元に開けていくような、少なくともその端緒を与えられたような、ある種の解放感(珍しく、カタルシスのようなもの)を感じたんですよ。それは貴重な体験でした。