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女装に見えてしまう生田斗真演じる「女より女らしい」トランス女性、 『彼らが本気で編むときは、』は教育推奨作品にふさわしい?

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「女らしい」女性像をトランス女性に押しつけるおぞましさ

この違和感は、Buzzfeedでの荻上直子監督へのインタビューでの、「みんなでリアリティのあるMtF像を作り上げた」というような主旨の(おそらく無邪気な)発言にも通じる。

この点は水野ひばりがツイッターで指摘していたように、一般論からはこのおぞましさはなかなか理解できないだろう。一連のツイートのなかで水野が告白しているのと同様に、わたし自身も保守的なトランスジェンダーであるところが否めない。自分の生活のわずらわしさから逃れるために既存のジェンダーロールを自分自身も体現しているところがあり、日々強化している。男女どちらかの生き方であることがノーマルとされる社会に同化するように、「女性」として見られる姿かたちをしており、スカートを履くし、化粧もきちんとする。繰り返しになるが「女より女らしい」トランス女性は実在するだろうが、一方、荻上監督らの「女らしい」トランス女性を作り上げるという努力はひるがえって、「女らしくない」トランス女性の在り方は不可視にし、そういった人々を許容する作品にはなり得ていない。

この荻上監督のインタビューからは、生田斗真の役作りの際に「本当の女性はそんな振る舞いはしない」という演技指導が飛び交っただろうと想像される。しかし、水野が重ねて指摘するように、仮にリンコをトランス女性の当事者が演じていたらどうだろう? 「本当の女性はそんな振る舞いはしない」と言えるだろうか? もし言えるのだとしたら、トランスジェンダー間に「本当のMtF(FtM)と、そうでない者」という分断を生み、選別が許されてしまい、息苦しさを生む可能性がある。

わたしは、当事者でないとこういったテーマを扱ってはいけない、と言うつもりはない。荻上監督や主演の生田斗真ら制作者のほとんどはおそらく、トランスジェンダーやゲイに対して侮蔑的な意図を持って作ったわけではないだろう。

しかし、本作ではトランス女性をメインに扱い、同性愛(後述)にもふれながら、トランスジェンダーとシスジェンダー(身体や社会的性別に対して性同一性に違和がない状態を指す)、同性愛と異性愛の、それぞれのあいだの差異や他者性をあまりにも軽視していると言わざるを得ない。自分たちと異なるジェンダー、セクシュアリティを持つ人々とのちがいに目を向けている気配はなく、男女ふたつの性別と異性愛のみが「普通」とされる、ヘテロセクシズムの社会になじんだトランス女性が登場しているだけ。既存の社会における家族観、女性観、母性観が揺らぐことはない。なぜなら、本作で唯一登場するトランス女性の人物造形は「女より女らしい」うえ、彼女が築くのは既存の男女一夫一婦制の婚姻関係という、ありふれたものだからだ。そこには多様性がない。

シスジェンダーの女性で「女らしくない」人がいるように、トランスジェンダーも「女らしい」人ばかりではない。そうした、異なる文化的背景を持つ人々がどう個別の人生を生きているか、そういう想像力がもたらす作品構造にはなっておらず、トランス女性に対する従来の「女より女らしい」、「男と女は恋愛し、結婚するもの」という価値観を固着化する作品となっている。

この点は、リンコの良き理解者として映画に登場する、パートナーのマキオの様子からもうかがえる。マキオが、母・サユリのいる施設で介護するリンコに一目惚れした、という設定は見逃せない。リンコはマキオの姪・トモとの交流のなかで母親になりたい願望を確かめ、甲斐甲斐しく世話をする。職場の介護施設でも同様に甲斐甲斐しい姿しか見せず(ある入居者がリンコの大きな手を心のきれいな人と美化する)、母性という言葉で礼賛されるような、古典的な「ケアする女性像」が求められていると見えてしまう。

繰り返しになるが、「女より女らしい」在り方を選んだり、母なるものへの信仰を抱く人はトランス女性に限らずいるだろうし、否定するつもりはない。だけど、それだけが現実ではない、という相対化を物語に組み込めなかっただろうか。

ネグレクトに差別…問題だらけの女性登場人物たち

一方で、トランス女性であるリンコ以外の女性像の、極端に偏った在り方も気になった。

まずトモの母・ヒロミだが、普段から家事をしている気配がない。二人が住む家はゴミ箱の中がぱんぱんで、シンクの中に汚れた食器が突っ込まれた状態で、トモはコンビニのビニール個装のおにぎりを食べている。どうやら母子家庭らしい。ヒロミは短い書き置きといくらかのお金を残して去る。トモは伯父のマキオのもとを訪ねて面倒を見てもらうが、どうやらこれが初めてではないようだ。つまりヒロミは明らかにトモをネグレクト(無視、育児放棄)している。

そのくせ終盤ではトモを引き取りにマキオとリンコの部屋に押しかけ、トモを養子として迎えたいというリンコに対して「母親でも女でもないくせに」といった暴言を吐く。加えてマキオに対して「あんたの性癖」と言う。これらの発言は明らかに、トランスジェンダーや、またトランス女性と付き合う男性に対してネガティブな意味合いで、衝撃的だ。実際の社会にこのような発言をする人々は存在するだろう。そうした現実の厳しさを反映するのはけっこうだが、侮蔑の言葉は回収されることなくこのシーンが終わる展開には疑問が残る。

またこのシーンは、子どもが責任を引き受けるよう求める展開となり、唖然とした。リンコとマキオ、ヒロミのあいだが険悪になるのを察してか、トモはみずから場を収めようとヒロミとの家に帰ると決断するのだが、そこでマキオは「姉ちゃんをよろしく頼む」とトモに言う。ネグレクトの問題も、トランス女性やそのパートナーに対する暴言も解決しないまま、弱者である子どもに虐待する母親の面倒を見ろと言うのだ。先に引いたBuzzfeedでのインタビューで、ネグレクトはだめだが子育てに毎日追われていやになるときがあると荻上監督は述べているが、シングルマザーのヒロミの子育ての苦労が徹底的に描かれるでも、子どものトモに救いのある展開を示唆するでもなく、ドラマを作る装置として利用されている感が強かった。

母親の暴論を一手に引き受けなければいけないのは、トモの同級生のカイも同じだ。

カイは、教室の黒板に「ホモ」「HOMO」といった落書きをされ、いじめにあっているようだ。トモもそんなカイとなるべく接点を持ちたくないとおもっているように見える。カイは、同級生の男子にほのかな好意を抱いており、校庭で遊ぶ彼らを見つめている。その同級生に宛てたカイのラブレターを見つけた母親のナオミは、それを破る。結果、カイは自死を試みたが回復し、入院する。ナオミの目を盗んでトモが病室に見舞いに行くとカイから、母親から「罪深い」と言われたと告白される。そんなカイをトモが「大丈夫」と抱きかかえて慰めるシーンはとても美しいが、以後カイの生活がどうなったかは描かれない。初めてリンコを見たとき異常者扱いをし、カイへの悪影響があると考えてか児童相談所にタレ込んで調査に入らせるといった、執拗にトランス女性を敵視するような、性的マイノリティへの差別者である母親のもと、果たして退院後のカイが健やかに成育できるだろうか。深刻な問題が棚上げされているとかんじた。

また、カイについては、人物造形も引っかかった。同性愛の気配がうかがえるカイは(性愛の指向も揺れやすいだろう小学生だし、カイ自身が自称していないので「ゲイ」とは書かない)バイオリンを嗜み、一方他の男子はサッカーに興じている。これでは、ゲイなど男性の性的マイノリティは繊細で、芸術にも明るく、そうでない者は活発でスポーツが好き、といったありがちな偏見を再生産する可能性がうかがえた。

そしてリンコの母・フミコだ。彼女は中学時代からリンコの性別違和を受け入れ、胸が成長しないと嘆く子に対して、ブラジャーと共に、おっぱいを模した手編みの胸パッドを与える。トランスジェンダーの存在が一般的ではないとされる現在の社会において、特に多感な時期は理解のある身近な大人の存在は重要だと思うが、このフミコは、小学生のトモに対していきなり「おっぱい育ってきた?」、などとセクハラまがいの発言を繰り返すような人物でもある。

フミコから手編みのおっぱいをもらったときのリンコの反応も妙だ。中学の授業で柔道をやっている時、道着がはだけると「きゃー!」と奇妙に甲高い声をあげる(このようなステレオタイプもどうかと思う)。そんなリンコは、フミコからブラジャーをもらうといきなり学ランを脱ぎ捨て上半身になるのだが、胸に劣等感を抱いているようなトランス女性が、いくら理解ある親だからと言って目の前でそんなことをするだろうか。

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鈴木みのり

1982年高知県生まれ。集英社『週刊プレイボーイ』編集者にナンパされ、2012年より雑誌などに記事を寄稿しはじめる。2017年より『週刊金曜日』書評委員を担当。第50回ギャラクシー賞奨励賞受賞(上期)ドキュメンタリー番組に出演、企画・制作進行協力。利賀演劇人コンクール2016年奨励賞受賞作品に主演、衣装、演出協力などを担当。2012年よりタイ・バンコクでSRSを受けるMtFを取材中。(写真撮影:竹之内裕幸)

twitter:@chang_minori

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