どういうことをするのが『ママ友』なんだろう
子供を共通項目として知り合ったのであろう関係のグループは出産後あちこちで見かける。子連れで出かけられる場所・時間帯はおおむね限られているから、自分が息子と外出すれば必然的にそうした人たちと遭遇するのだ。
つい先日、近所の飲食店で出くわしたのは、どうやら小学生の子を持つらしい『ママ友』の4人組だったのだが、子どもたちはその場にはおらず(小学生なのだから子どもだけで遊びや習い事に言っているのだろう)、ママ友だけで盛り上がっている。すでに子ども抜きでも場が成立するほど打ち解けているのか、すごいもんだなあ、と思っていたが、会話の内容はやっぱり子どものことがほとんどのようだった。
塾や家庭教師の話題をテーマに、「うちの子は」というフレーズで始まる我が子サゲと、「〇〇ちゃんは△△(褒め言葉)だ」というヨイショの2パターンを繰り返す4人の女性たち。聞き手は常に同調、褒められた子の母親は「そんなことないよ~」と謙遜するという、受け答えもまたワンパターンだ。何時間も話し込むほど楽しいとは思えない話題のように思うのだが、それでもUさんの言うように、こうして群れを成すこと自体が小学生の子を持つ親たちの防衛策なのだろうか。楽しいか楽しくないかじゃなくて、母親としてやる“べき”仕事のひとつ?
そうした情景を見るにつけ、『ママ友』が公園で演技してまでも得たいと思えるような関係性には到底思えない。というかそれ以前に、自己の主張が会話内に存在しない時点で、友人と言えるのかどうか疑問に思ってしまう。
彼女たちが、決まったフレーズのみを連打し合い、食事が終わっても長々と単調な会話をしていても楽しいと思うほど、「子育て」という「趣味」に熱狂しているというなら良いのかもしれないが。私もやがて、ああいった集会に参加しなければならなくなるのだろうか。ホメと謙遜を繰り返して学校行事や地域行事の「間」を持たせる必要が出てくるのだろうか。
私も今生活の中でいちばん没頭していることと言えば「子育て」だし、最近ではベビースイミングを始めたりなど、子供の成長のために費やす時間や労力が増えた。それだけに、思い通りにいかず辛い思いをしたり、それを乗り越えて子供の成長を目の当たりにできたときの喜びといったら半端じゃない。そんな、いまの自分の「髄」とも言える部分を共有できる友人ができたらいいなとはと思うが、「とにかく何でもいいからママ友を」という考え方には共感できない。私も相手の『ママ』も、考えを持った大人同士だし、友達と呼べる関係性を築くにはただ「近所のママだから」というだけでは不十分だ。
将来、具体的にどんなことがあるから味方となる『ママ友』が必要なのかは正直わからないのだが、もし仮に「味方」を得て心強い就学時代を送ったとしても、自分の子の主張や他人の子の称賛を繰り返さなければならず、常に同調しながら何時間もお茶しなければならないとしたら、それは私にとっては安堵できる環境でもなんでもない。
単に大人同士として「この人と気が合うから仲良くなりたい」ではダメなんだろうか。しかし子を持った途端に、それまで存在していたはずの「自分個人」の色、性質、好き嫌いなど認めてもらえなくなるのかもしれない。<あの人『ママ友』なのに、子供じゃなくて自分のことばっかり話してるよ~>なんて蔑まれる……のかもしれない。
『ママ友』って、あくまで「主役は子供、親は脇役」でいなきゃならない、そういう関係性のように見えるのだ。母親になったとたんに自分個人の名前で呼ばれることは滅多になくなり、周囲から「〇〇ちゃん(くん)ママ」と呼ばれる場所でしか交流ができなくなるのは寂しいことだし、一人の女性の人間らしさを失わせることにつながっているように思う。私はやっぱり、ママとしてじゃなくて人として交流できる友人関係が欲しい。「〇〇ちゃん(くん)ママ」と呼び合う同士でつながった所で一体どんな関係性が築けるというのだろう。
あまり深い付き合いをしない、たとえば休日は予定を合わせて会ったりしない、近所でたまたま会っても挨拶だけですれ違う、園や学校の行事で協力する際もそれ以上のこと(作業後にお茶、とか)はしないなどの関係性でも、十分ではないだろうか。そのうえで「もっとこの人と話したい」と思えるくらいお互いに気が合う相手が偶然見つかったら、「飲みに行こう」「家でお茶しよう」と誘い合ってもいいと思う。
しかし、冒頭のUさんのように、相性もわからない段階で「とりあえず」作った『ママ友』グループと、定期的にランチしたりお茶したり、ディズニーにまで行くとなれば、普通の友達のように楽しむことは出来ないんじゃないだろうか。やはり自分自身の本質を理解し合える相手とでないとしんどい。
自分の友達、じゃないと無理
学生時代からの大親友・Aちゃんは、私より数年前に出産し現在は二児の母だ。Aちゃんと会えば互いに子供のことを話すことは当然あるが、元々お互いに好きだから付き合っているのだし、子を産んだからと言って「母親」という役割が1つ加えられた相手と会う、というだけのことなので、育児以外の話でも散々盛り上がれる。子供に翻弄された生活を送り、話題が自然と子供の話中心になろうともやはり根本的に「Aちゃん」を認めて付き合っているということには変わりない。
つい先日、職場でAちゃん同様二児の母親である同僚女性と「互いの環境が年々変化しようと変わらず付き合える友人は大切だ」という主旨の他愛ない会話をしていたら、その同僚女性が「わかる、イイよね~! ママ友がいるってホント心強いよ!!」と返してきたので、違和感を覚えた。Aちゃんはママ友じゃなくて、私の友人だ。世間的には「子を持った母親同士」=「ママ友」と見られがちだが、母になろうが祖母になろうが“自分の”友達ぐらい存在してたっていいだろう。元々の友人同士が、それぞれ母親になったというだけの話。
今、頭の中で仮にAちゃんのことを「〇〇くんママ」と呼んでみた。そこにはAちゃんは外側だけ仕上がった母親としての状態で存在していて、私の知っている破天荒で面白い「Aちゃん」は全く存在しなかった。
ここまで『ママ友』に否定的なことをつらつら書いてきたけれど、最初は子供を介した付き合いだったけれど、何度も会って会話していくうちにお互いを好きになって、子供が巣立った後も気の合う大切な友人になっているという『ママ友』関係もきっとあるだろう。いつか、子供を通じて出会う場所で、私自身が意気投合でき、育児の苦労を同じ温度で分かち合える友人に出会えたら幸せなことだ。ただ子供うんぬん以前にお互いが好きだから「友」なのであって、私にはやはり『ママ友』を「作る」ことはどうしてもできない。
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