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自分探しのために「娼婦は女神」「タイは楽園」と消費しない、知的で誠実な映画『バンコクナイツ』の魅力/鈴木みのり×ハン・トンヒョン

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(C)Bangkok Nites Partners 2016

熱心なファンを持つ、映像制作集団・空族の最新作『バンコクナイツ』が密かな話題となっています。

「娼婦、楽園、植民地」というコピーが目を引く本作は、タイのイサーン地方からバンコクに出稼ぎにきたタイ人女性・ラックと、元自衛隊員で現在はネットゲームで小銭稼ぎしているラックの元恋人・オザワが、5年ぶりの再会を果たしたところから物語は展開していきます。日本人専門の歓楽街タニヤ通りに生きる娼婦たち、ビジネスチャンスを掴もうと企む日本人、居場所をなくしタイに滞在し続ける“沈没組”など、様々な登場人物が現れる本作の映画の魅力のひとつが「周辺化していない点」だと、ライターの鈴木みのりさんと社会学者のハン・トンヒョンさんは語ります。

セックスワーカーやアジア諸国は、得てして「周辺化」されがちです。それらは、近年日本でよくみられた身体を売って生きている女性たちの苦労をことさらに強調した他人事のような報道や、アジア諸国を周り、貧困や戦争に苦しみながら生きる人びとをみて勇気づけられる、「自分探し」のような、他者を自分のために消費する行動として現れています。しかし『バンコクナイツ』では、タイを、そしてセックスワーカーを周辺化することなく描くことに成功していました。なぜ空族は「周辺化」せずに本作を制作することが可能だったのでしょうか。空族の誠実な態度を窺い知れる細部と、本作の魅力についてお二人に語り合っていただきました。

セックスワーカーをジャッジしていない

ハン ライターの西森路代さんと『お嬢さん』について対談した際に、「パク・チャヌクが『荊の城』を植民地時代の朝鮮におきかえると聞いて不安がよぎった」という話をしました。杞憂に終わってホッとしたどころか素晴らしい映画だったんですけど、『バンコクナイツ』も、空族がタイでしかもセックスワーカーを取り上げる映画を作っているって聞いた時点では不安が先に立ってしまって。『サウダーヂ』が大傑作で大好きなだけに、とはいえタイへのファンタジーのようなものも感じられたがゆえに、『バンコクナイツ』がその辺、ダメだったらどうしようって不安で仕方なくて。でも日本人の男の満足のために、タイのセックスワーカーを消費するような映画じゃなくて、安心したし本当にうれしかったんです。

鈴木 わかります。わたしは序盤で「この映画は信頼できそう」って思ったんですが、それは、ラックがお店の楽屋で同僚たちとタイ語で話しているシーンがきっかけでした。例えば「~じゃね?」という具合に、口語に翻訳された字幕と、彼女たちの調子に齟齬がなかったんですね。「〜だわ」「〜なのよ」みたいな、変な女ことばだとズレた気がします。タイ語やタイ人の感じが日本語に搾取されていない、周辺化されていない、と思いました

ハン 鈴木さんは、messyに女ことばについての記事を書かれていますよね。ビョークと宇多田ヒカルの記事とか。

鈴木 あと『リリーのすべて』の字幕への違和感を書いた記事でも指摘しているのですが、『ボーイズ・ドント・クライ』で、ゲイという設定だけで女ことばに翻訳されているキャラがいて違和感を持ったこともあります。オネエタレントのような、パフォーマティブな女性性を出してもないのに、「~なのよ」って典型的な女ことばになっていたりして、すごく奇妙に感じたんですね。でも『バンコクナイツ』では、彼女たちの会話の様子と同じように、生き生きとした口語に翻訳されていて、これはヤバい、おもしろくなる予感がするな、と。

ハン 鈴木さんがおっしゃったように、この映画はタイの女性たちが周辺化されていないですよね。男性の作り手による女性セックスワーカーが登場する作品って、男性が持つセックスワーカーへのファンタジーが透けて見えるものが多い印象があって。たくましく生きる女性たちとエロスを絡めて、セックスワーカーはすごい、みたいな。あるいは、「娼婦は女神」とか「娼婦は天使」みたいなやつ。それ人じゃねーし(笑)。要は対等な存在ではなく、必要以上に持ち上げたり見下したり、結局は自分のために消費している。でも『バンコクナイツ』は大前提としてもっとフラットに、今の同じ社会を生きて生活する人として、彼女たちのことを描いていた。自分がおかれている状況のなかで選択できる仕事をして、家に仕送りをして、普通に生きている。ちゃんとリスペクトがありました。

鈴木 そうそう、彼女たちの仕事に対する是非をジャッジしていないですよね。

『介護する息子たち』(勁草書房)という優れた男性学でもある本が最近出たんですが、著者の平山亮さんは、先行の男性学が「男性の生きづらさ」の解消が目的とされている点への問題意識を書いていらっしゃったんです。男性である時点で「下駄を履かせてもらっている」、つまり女性と比較して社会的に優遇されているし、就学や就労を得る機会にアクセスする権利を得ている。もちろん人によるんですけど、相対的に見ると、女性の方が生きる基盤を獲得するという点で圧倒的に危ういのに、その非対称性を無視して「男だってつらいんですよ」とかぶせてくる、同じ「生きづらさ」とまとめるのはおこがましいだろう、と。その上で平山さんは、男性自身が稼得役割に強迫されるより、まず目の前の女性が稼得能力を備えられるようにサポートすればいいんじゃないか、という論にふれています。「自立や自律を志向する男性性」が前提の社会に執着してしまうと、弱者が弱者として存在すること自体を肯定できなくなる。そういう「男性性」が支配的な構造からの脱却を、弱者側に立って、促しているんですね。

この映画がそこまで自覚的にやっているわけではないと思うんですけど、現地に行って彼女たちのコミュニティに入ることによって、彼女たちが抱えている生きづらさをわかった上でと言うか、寄り添うと言うか、そういうことをぼんやりと考えながら作っていると感じたんですよね。だから、彼女たちの生きる基盤として、セックスワークという仕事を否定していないんだと思います。

ハン そうですね。フラットだといっても無条件に肯定したり、仕方ないとあきらめているのとは違う感じですよね。その姿勢が後半のオザワの放蕩にもつながっていくと思うのですが。ちなみにこの映画、セックスシーンがありません。当然あってもおかしくないストーリーなのに、一切なかったのは意図的なのかなと思いました。だからラックがあまり性的な存在になってない。

鈴木 冒頭で、ホテルでバスローブを着たおっさんがいて、ラックに対して「一緒にシャワー浴びてくれないし、キスもさせてくれない」と言っているシーンがあるし、ラックが男性に買春されていることはわかる。でも肌を露出するといった、あからさまに性的な演出がされてないんですよね。

ハン これだけセックスワーカーが出ている映画なのにね。エロを期待して見に行く人がいるのかどうかわからないけど……。

鈴木 ひょっとしたらセックスを意図的に描いてきた人たちは、セックスを描かないと彼女たちのタフさを描けないって思い込んでいたのかもしれませんね。

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鈴木みのり

1982年高知県生まれ。集英社『週刊プレイボーイ』編集者にナンパされ、2012年より雑誌などに記事を寄稿しはじめる。2017年より『週刊金曜日』書評委員を担当。第50回ギャラクシー賞奨励賞受賞(上期)ドキュメンタリー番組に出演、企画・制作進行協力。利賀演劇人コンクール2016年奨励賞受賞作品に主演、衣装、演出協力などを担当。2012年よりタイ・バンコクでSRSを受けるMtFを取材中。(写真撮影:竹之内裕幸)

twitter:@chang_minori

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