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愛国心と公共教育を混同し、ためらいなく「強い日本」へ先導する安倍政権への憤り

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ナガコ再始動

ナガコ再始動

 『森友学園』の不正疑惑騒動が長期化する現在。国有地格安払い下げ問題に端を発した本件が、私学許認可、同園運営による『塚本幼稚園』の愛国教育や児童虐待疑惑、安倍首相夫妻や公人および公的機関の関与などなど、「それ(思想・教育)とこれ(不正・責任の所在)とは別の話」を複合している状況については、いまさら言及するまでもない。

 また、関係各位の証言、弁明に、食い違いが生じていることも周知の事実である。追求や答弁には、事実性の精査とは「別の話」である、党派の保身、倒閣のチャンス、説明責任の放棄、自己都合のための印象操作も紛れ込む。誰かが嘘をついている。証拠が隠蔽されている。しかし、“隠蔽”も“虚偽”も“忖度”も、実在を客観的に証明する手立てがない以上、事実か否かの判断を容易には下せない。

 かくして「それ(事実)とこれ(事情・印象・憶測)とは別の話」が混迷を極め、年度末の予算審議会を空転させた本件に対し、当方はまず、本筋である「不正」の解明のみを願う。新年度予算が成立した今、調査は司法や検察に任せ、国会議員の皆様にはその他の重要案件を議論する本分を全うしていただきたい。

 「不正」については、以上だ。が、「愛国保守思想」については、思うところがある。以下、本件の事件性および党派争いとは「別の話」と切り離したうえで、「クソだせーな保守!」と憤る私個人の感情論を述べる。

説明もためらいもない保守政府への不信

 昨今は、「強い日本を取り戻す!」と公言する安倍内閣の政策以下、愛国保守の再教育を想像させる話題が相次ぐ。これに対し、個人の自由を尊重する民主主義国家の崩壊や、戦前回帰を危惧する国民の声は高まる。

 当方は、全体主義嫌いの個人主義者であるため、全体の都合のために個人をパーツ扱いし、操作しようとする体制に強い嫌悪感を抱く。よって、学校教育法の改正によって強化された道徳教育(「国や郷土を愛する心」や「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家及び社会の形成者として、その発展に努めること」を、小中学校の学習指導要領で規定)の児童への刷り込みや、改憲草案による家族条項(家族制の強化、家父長制の復権)に反対する。国民個人のパーソナルな範疇にある思想や生活スタイルの選択の自由に、政府の干渉の余地などないと考えるからだ。

 同時に、「個人の思想」を他者および全体に押し付ける者にも反感を持つ。『塚本幼稚園』の籠池夫妻が、その典型である。夫妻は、「私的な思想と公共教育」をためらいもなく混同している。児童に教育勅語の暗唱とヘイトスピーチを強要し、虐待を疑われる言動も行った。それは無論、教育ではない。「教育と虐待」の区別もつかない者は、教育者ではない。ただの思想家個人であり、思想が保守であっても革新であっても、言動は等しく「児童虐待」だ。その思慮分別のなさに、憤る。

 もっとも、籠池夫妻はただの暴走私人である。国民全体に関わる公人と同列に扱うわけにはいかない。また、一言で「愛国」「保守」といっても、「私的な思想」と「政治思想」は必ずしも合致しない。伝統や文化継承を重視し、規律や秩序を重んじる精神性は、個人差のある性格に依るところがある。愛国(憂国)ロマンや軍人マニアも、ただのファンなら個人の趣向だ。

 他方、手堅い地盤固めや、急激な革新を諌める重しとしての政党のあり方、島国である日本の国防政策、世界を俯瞰したうえでの外交手段などには、個人の性格や思想とは異なる政策としての見解が含まれる。頑固に保守政治を貫く政治家の中には、個人の思想は特になく、現代社会を見渡した結果論としての方策を打ち出している者もいると考えられる。

 よって、保守政府の国策が、特定思想や自己都合の押し付けではなく、国民全体の良化向上にとって最適な提案だと言うならば、聞く耳は持つ。例えば、家族条項について、家父長制を現代に蘇らせなければならない理由を明確に示してくれさえすれば、こちらも一考の構えはある。

 が、説明文には、昭和の経済隆盛期の家族モデルを礼賛する文言のみが並び、当時とは時代背景が異なる現代社会および今後の日本を担う若者たちに理解を促すための呼びかけがない。かつての家父長制のデメリットにまつわる記載もない。ただの昭和懐古か、保守利権に群がるビジネス保守の釣り堀であると解釈する余地のみが有り余る。それが民主主義国家の国民として与えられている個人の尊厳を著しく軽視する根拠であるならば、当方は断固、拒絶する。

 また、『塚本幼稚園』が児童に朗唱させていた教育勅語については、親孝行や兄弟友達との友愛を語る徳目の最後に登場する「有事、国民は義勇を奉公すべし」との一文が胡散臭い。我々は、戦争は我が国が犯した愚かな黒歴史であると教育されてきた。お上が教育勅語を肯定するということは、「いざとなったら、国民はお上のために命を捨てろ」と言っているに等しいと解釈し得る。

 よって、国民は反発するのだが、「強い日本を取り戻す!」ための道徳教育に執心した元下村文部科学大臣は、三年前に教育勅語を「至極真っ当なこと」と公言した。現在の松野文科大臣は、戦後に失効決議が下された教育勅語を「歴史の理解を深める観点により、教科書に用いるのは問題ない」と述べた。確かに、黒歴史の資料としては学ぶべき点がある。が、黒歴史として記載するか否か、はっきりと名言しない答弁が、国民の不信感を誘う。

 先日は義家文科副大臣が、児童教育の場での教育勅語の朗唱は「教育基本法に反しない限りは、問題ない」との見解を示した。なるほど、様々な資料を読み、朗唱する自由と権利は誰もにある。が、国民が説明を求めたいのは、教育基本法の観点ではなく、「そう言っておけば答弁の急場をしのげる、よくある回答例」でもなく、現政府が教育勅語を肯定的に教育利用する方針を持っているか否かだ。

 要するに、政府は説明がまったく足りていないのだ。自分の価値観を、自分とは異なる価値観をもつ者に伝達する際には、自他の共生する社会の全体像を俯瞰したうえで、想像力と言葉を尽くして説明する必要がある。これを簡略することは、偏りのある価値観を他者に押し付けることと同じだ。説明し納得させることなく、ふわっとした概念でもって国の方向性を定める政府など、不信感を抱かれて当然である。

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林永子

1974年、東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、映像制作会社に勤務。日本のMV監督の上映展プロデュースを経て、MVライターとして独立。以降、サロンイベント『スナック永子』主宰、映像作品の上映展、執筆、ストリーミングサイトの設立等を手がける。現在はコラムニストとしても活動中。初エッセイ集『女の解体 Nagako’s self contradiction』(サイゾー)を2016年3月に上梓。

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女の解体 nagako's self contradiction