前回、シングルマザーの貧困とその連鎖は日本が女子教育を軽視してきた産物であると指摘しました。その中で、こうした貧困の連載を食い止めるための支援で特に重要なのはお腹に子どもを宿してから2歳の誕生日までの“最初の1000日”だと言及しました。
なぜ最初の1000日が重要なのか、先に結論を述べると、この時期の母体ないし子供が栄養不足や栄養不良(ジャンクフードを大量に摂取するなど、エネルギー自体は足りているものの、ミネラルや鉄分といった微量栄養素を欠く栄養バランスに問題がある状態)を経験してしまうと、脳の発達に遅れが生じてその悪影響がその子供に一生ついて回るものとなるからです。
近年、最初の1000日の支援の重要性は国際的に注目を集めています。私が勤務する国連児童基金でも子供の権利を守るための重要な戦略として、最初の1000日支援がセクター横断的に採用されています。一方、日本の政府の支出を見ると、子供を含めた家族への予算はGDPのわずか1.3%しかつけられておらず、少子化であることを考慮しても、最初の1000日を含めた子供を持つ家庭への支援の重要性が認識されている予算シフトとは言えません。そこで今回は、人生の最初の1000日について、特に栄養の観点からお話をしたいと思います。
なぜ最初の1000日が重要なのか
最初の1000日は、教育・保健・精神衛生という3つの観点から非常に重要な期間だと言えます。
まずこの期間は急激に脳が発達するため、学習活動に影響を及ぼすという点が挙げられます。脳の構造は複雑なため部位によって最も発達が起こる時期は異なります。しかし、円滑な学習活動を支える視覚・聴覚・言語能力などをつかさどる部位は、この最初の1000日間で、急激に神経細胞の数が増えるだけでなく、神経細胞同士のつながりも増加し、複雑化していきます。このため、最初の1000日間に栄養不良(厳密には鉄分などの必要な微量栄養素の欠乏の影響が大きくなります)を経験すると、学習活動を支える脳の部位の発達が充分なものとならず、その影響が生涯続いてしまうと考えられています。
また最初の1000日間に栄養不良に陥ると、子供の免疫システムの発達にも悪影響を与えます。アフリカや南アジアのような途上国では、マラリア・肺炎・結核・下痢などによる子供たちの死につながるため、より深刻ですが、医療設備の整った日本でも死に直結しないまでも、健康不良によって就学年齢児童の学習に影響を及ぼすでしょうし、成人してからも仕事に集中することを妨げるでしょう(途上国で最も費用対効果が高い教育介入策は虫下し薬の配布だとする研究もあるぐらい、健康状況は学力に影響を及ぼします)。
そして、このような栄養不足は成人後のメンタルヘルスにも影響を与えることが分かっています (Martins 2011)。人間は様々なストレスに晒されますが、その中でも栄養不足が与えるストレスは最も大きなものの一つです。さらに、栄養不足が脳に与える影響の一部には、興奮と落ち着きに関係する交感神経と副交感神経も含まれています。このため、最初の1000日間の栄養不足・不良が大人になってもメンタルヘルス面で悪影響を与え続けると言われています。
このように、最初の1000日に十分な支援が行われないと、教育・保健・精神衛生の3つの点から一生涯続きうる悪影響が発生しかねないのです。
出産前・出産後・最初の1000日後、それぞれはどの程度重要なのか?
それでは一体、最初の1000日は、その後の教育状況にどれだけの影響を与えうるのでしょうか。
上の表は、低・中所得国での出生時体重・0-2歳間の体重増加・2-4歳間の体重増加と、その後の教育状況についてまとめたものです (Martorell 2010)。この表は、例えば出生時の体重が0.5キロ重い場合、教育年数が0.21年ほど延び、留年率が8%ほど減少することを示しています。それぞれの項目を見比べてみると、出生時の体重と0-2歳間の体重増加幅はその後の教育状況に大きな影響を与えるものの、2歳を過ぎてからの体重増加幅は前者と比べるとそれほど大きなものではなくなっていることがわかります。留年率が下がるということはそれだけしっかり学ぶことができているということを意味しますし、教育年数の増加はその後の所得にも影響を与えます。このため、栄養不良が引き起こす学力や教育水準の低下、つまり最初の1000日の影響は生涯続くと考えられます。
なお一つ特筆すべき点は、出生時の体重が軽い子供ほど、0-2歳間の体重増加の恩恵が大きいという点です。具体的には、最も軽く生まれた子供群と最も重く生まれた群を比較すると、0-2歳児間の体重増加の恩恵は、前者の間で後者の1.7倍ほどになります。つまり、支援の不行き届きにより母親の胎内にいる間の栄養状況が良くなかったとしても、出生後すぐから2歳になるまでの支援をすることが出来れば、リカバリーが可能だという点です。
日本の子供たちの最初の1000日の状況
では、日本の状況はどのようになっているのでしょうか?
上の図が示すように、日本は先進諸国の中でギリシャについで出生時に低体重児の割合が高く、その値は9.6%となっています。そして日本は、1970年代にはこの値が5%台だったにもかかわらず、2010年にはこれがほぼ倍増しているという、他の先進諸国には見られない特徴があります。その原因は高齢出産だったり、女性の喫煙率の増加だったり、痩せすぎの女性の増加だったり、様々なものが指摘されていますが、いずれにせよ子供の発達を守るためにも、妊産婦への支援が必要な状況にあると言えます。また、出生時だけでなく0-5歳児の低体重割合についても、日本はデータが存在する5カ国の中で最も高い3.4%となっています(次にチェコの2.1%、ドイツの1.1%と続くことから、恐らく日本は先進諸国の中で最も低体重児の割合が高い国の一つであると推測されます)。
これらのことから、栄養面に関する日本の子供たちの最初の1000日の状況は、先進諸国の中で最低水準にあることが考えられます。さらに、一般的に厳しい状況にある親の子供ほど栄養不足や栄養不良になりがちである点も重要です。このため、低学力・低学歴を通じた貧困の連鎖を防ぐためにも、前回の記事で取り上げたシングルマザーの子供や、親が失業状態にあるといった、不利な環境にある子供たちの最初の1000日の支援が重要だと言えるでしょう。
特に注意が払われるべきなのは、不利な環境にある家庭ほど、経済的な理由により「子供のケアに手をかけたいが金銭的な事情がそれを許さない」、「日々の生業で手いっぱいで、子供のケアに充分な時間的をかける余裕がない」といった現実に直面している点です。単純に最初の1000日の重要性を説くだけでは、逆に保護者の精神的な負荷を大きくし、子供に悪影響が出ることが懸念されます。このような現実を考慮し、この時期にある子供たちに、栄養面だけでなく、発達を促すための適切な刺激(教育)、必要な予防接種の実施や衛生的な環境の提供(保健)、支援を可能にするための行政システム(子供の保護)と、行政的に分野横断的な支援や社会的な支援がなされることが必要であることは言うまでもありません。
参考文献
Martins J.B.V., and et al (2011) Long-Lasting Effects of Undernutrition. International Journal of Environmental Research and Public Health, 8(6), 1817-1846.
Martorell, R, et al. (2010). The Nutrition Intervention Improved Adult Human Capital and Economic Productivity. Journal of Nutrition, 140(2), 411–414.