18世紀の地獄のミサワ?
僕は女を崇めてるんだけど、その中で僕がまともに会話できる連中ってのは、僕自身軽蔑しているような女たちだけなんだよ。そういう運命なのさ。(オリヴァー・ゴールドスミス『負けるが勝ち』第2幕第1場133–134行目)
なんだか状況がわからなくてもムっとする台詞ですよね。私はこの台詞を初めて読んだ時、脳内では地獄のミサワの顔で再生されました。これは18世紀アイルランド出身の劇作家オリヴァー・ゴールドスミスが1773年に発表した喜劇『負けるが勝ち』(She Stoops to Conquer)で、ロンドンの良家のお坊ちゃんチャールズ・マーロウが自分を形容する台詞です。マーロウが言う「僕自身軽蔑しているような女たち」というのは、友人のヘイスティングズによると「パブのメイドや大学の寝室係」(同99 – 100行目)など、自分たちより階級の低い女を指します。チャールズは上流階級の女とはほとんど目も合わせられない恥ずかしがり屋ですが、下層階級の女を口説くことにかけてはたいへんな手腕を発揮します。自分より階級が下で、与しやすいと思った女しか口説かないのですね。しかも相手のことは軽蔑しています。いや、本当にいけすかねえ野郎です。これで恋愛喜劇の主人公なんですよ!?
社会的地位や学歴、年齢などが「下」の女としか付き合いたがらない男を見たことがある方はけっこういるかと思います。人格の成熟度とかユーモアのセンスなど家庭生活で重要な要素は社会的地位や学歴、年齢などで決まるものではないのですが、チャールズのように自分に自信が無い男はラベルで人を判断して優位に立てそうな相手しか口説かないのですね。『負けるが勝ち』は18世紀のお芝居ですが、こんな今でも見かけるいけすかない男を面白おかしく描いたコメディです。前々回紹介した『西の国のプレイボーイ』同様、日本ではあまり知られていませんが、英語圏では人気があり、イギリスの劇評家チャールズ・スペンサーなどは「天国のどこかで(中略)『負けるが勝ち』の完璧な上演が永遠に続いているんだろうとずっと信じているんです」と言うほどで、楽しい劇として定評があります。今回の記事では、とても現代的なテーマを扱ったこの古典的戯曲を、物語を追いながら見ていきたいと思います。
※この論考では、Nigel Wood, ed., She Stoops to Conquer and Other Comedies (Oxford University Press, 2007) に収録された原典テクストを参照し、自分で訳しました。日本語訳にあたってはオリヴァー・ゴールドスミス『負けるが勝ち』竹之内明子訳(日本教育研究センター、1992)を参考にしています。
ヒロインのケイトが仕掛ける恋の罠
『負けるが勝ち』のヒロインはハードカッスル家の令嬢ケイトです。ハードカッスル家は田舎に屋敷を持っており、貴族ではありませんが「州でも一番の名家のひとつ」(第4幕第1場187–188行目)です。ケイトはハードカッスル氏の先妻の娘で、後妻である二代目ハードカッスル夫人には連れ子のトニー・ランプキンがいます。トニーは大変ないたずら者です。
ケイトは若いわりにしっかりしています。冒頭でハードカッスル氏は娘のドレスが派手すぎるとこぼしますが、これに対してケイトは、朝は訪問に備えて自分の好きなドレスを着るが、夕方になれば言いつけどおり粗末な服装をすると「取り決め」(第1幕第1場90–92行目)したでしょ、と父に約束を思い出させます。ハードカッスル氏はうるさ型のようなのですが、父の顔を立てつつ、うまく自分のやりたいことするケイトはなかなかやり手です。
とはいえケイトも若いので、イケメンの話を聞くと心穏やかではいられません。ハードカッスル氏は娘を友人マーロウ氏の息子チャールズと結婚させたいと考え、紹介のため家に呼ぶとケイトに伝えます。ハードカッスル氏はそこまで強権的な父親ではなく、「お前の選択を支配する気は無いよ」(同105行目)と娘の意志を尊重し、さらにチャールズは内気らしいので闊達なケイトとうまくいかないかもという不安も表明しますが、一方で娘をその気にさせようと口を極めてチャールズを褒めます。教養も財産も申し分ないイケメンが花婿候補ということで、ケイトは「その彼は私のもの!」(同117–118行目)と期待に胸をふくらませます。このあたりのケイトは従順な可愛いお父さん子といったところですが、一方で会う前から相手の男心を操縦する気満々です(同143–146行目)。恋の作戦に大事なのは情報収集ということで、ケイトはチャールズの親友ヘイスティングズの恋人であるいとこのコンスタンス(脇筋のヒロインですが、今回は脇筋は割愛します)に相談します。コンスタンスは婉曲な表現でとんでもない情報を教えてくれます。
評判が良くて貞淑な女性の間では誰よりも控えめなんだけど、別な感じの女性たちの間では全然違う性格だ、と知り合いの間では囁かれてるの。わかるでしょ?(同164–167行目)
「別な感じの女性たち」というのは下層階級、とくに水商売の女たちを指します。ふつうならそんな裏表のある人はやめとこう……と思うものですが、むしろ闘争心をかき立てられたのか、ケイトはチャールズとうまくいくか試すことにします。
一方、いたずら者のトニーは、家の外でたまたま出会ったチャールズとヘイスティングズをからかってやろうと、ハードカッスル邸のことを「宿屋」として紹介します。一行はハードカッスル氏を宿屋の主人と思い込んでトンチンカンな振る舞いをします。屋敷を宿屋だと思い込んだまま、チャールズはケイトと対面しますが、相手の顔すらまともに見られない始末です(この場面はチャールズが挙動不審すぎるので、舞台では笑いどころです)。ところがチャールズはどうも相当美男だったようで、ケイトは「かなりいい男」で「センスもいい」がそれを発揮できていないと見抜きます(第2幕第1場470–472行目)。
ケイトはチャールズが屋敷を宿屋だと思い込んでおり、さらに粗末な服に着替えた自分をメイドと勘違いしていたと知ります(第3幕第1場225–226行目)。ケイトと目も合わさなかったので、顔を覚えていなかったのですね。ケイトは話し方を変え、メイドのふりをしてチャールズに近づきます。ここでケイトは、男に姿を見られるというのは「顔を市場に出す娘には小さからぬ強み」(同240行目)だと言います。ケイトは、結婚はロマンティックな結びつきというよりは市場での取引のようなものというたいへんドライな結婚観を持っており、抜け目ない商人のように行動します。
この後は、わりと打算で動いていたケイトとスケベ心で動いていたチャールズがどんどん本気になる様子が描かれます。メイドのふりをしたケイトにチャールズはすぐ目をつけ、自分はロンドンではモテるのだなどという(たぶんウソの)自慢をします(同315–316行目)。チャールズはまだ相手を軽く見ていますが、一方で「あのちっちゃなパブのメイドがひどく妙な感じで頭から離れない」(第4幕第1場29–30行目)と言い、軽はずみに手を出すようなことはしないとヘイスティングズに誓っていて(同56–57行目)、どうも少々真剣になってきています。
だんだん「宿屋」の状況を不審に思いはじめたチャールズに対して、ケイトは本当はここはハードカッスル家なのだと教えます。しかしながらまだ自分の正体は明かさず、ハードカッスル家の貧しい親戚で家政を担当していると思わせておきます。驚いたチャールズは、自分はとんでもない勘違い野郎で、相手の思わせぶりな態度についても誤解していたのではないかと不安になりますが(同205–206行目)、ケイトのしおらしい態度を見て心を打たれます。チャールズは真剣に恋に落ちたものの、身分が違いすぎて互いのためにならないと身を切る思いで別れようとします。これを見たケイトはチャールズの真心にグっときてしまいます(同237行目)。
結局ケイトを諦めきれなかったチャールズは、身分も財産の違いもかなぐり捨てて求婚しようとしますが(第5幕第3場40–41)、最後にケイトの本当の身分が明らかになり、一杯食わされたと呆然。ケイトはチャールズを今までのことでからかいますが、そんなことをされてもチャールズは恋心に勝てません。「ちっちゃな暴君」、つまりケイトが今後もう少しお手柔らかに振る舞ってくれれば「僕は最高に幸せ者になれる」(同145–146行目)と求愛し、カップルが成立して芝居が終わります。
結局、ケイトはチャールズより何枚も上手で、いけすかねえ野郎は自分のバカさ加減を悟って真の愛に目覚めることになりました。ケイトが父の指示に従って結婚するというところは古さを感じさせますし、ケイトみたいな賢い女とチャールズみたいなおばかさんがうまくいくのかという不安はありますが、一応ハッピーエンドです。
階級も、良い女/悪い女の区別も、全部眉唾
このお芝居が非常に面白いのは、我々が当たり前のように受け入れているいろいろな社会的区別を、単なる幻想に近いものとして笑い飛ばしているところです。ケイトは衣類や話し方を変えることで身分の低いメイドになりすましますが、ここでは生まれに基づく階級は習得した身のこなしの差異にすぎず、いくらでも演じたり装ったりすることができるということが示唆されています。ケイトは作中で令嬢→メイド→貧しい親戚→令嬢と3回も身分を変えており、ケイトが自分をどう見せたいかと、チャールズが相手をどう見たいかという2つの要素の組み合わせによってケイトが身に帯びる階級が決まっていきます。相手の階級をどう判断するかについてチャールズが採用した基準は非常に曖昧で、全く確実なものではありません。ケイトがチャールズに対して「私のふるまい」(第4幕第1場202行目)にはパブのメイドらしいところなどなかったのに、と言うところは、おそらくチャールズのあてにならない判断をからかっているのでしょう。チャールズは女の階級を正確に判断できないのに、それを基準に女を選ぶというバカげたことをしていたのです。
さらにこの作品が問い直しているのは、良い女と悪い女の間にある社会的な区別です。チャールズが下の階級の女ばかり口説くのは、そうした女のほうが尻が軽いと見なされており、またセックスがらみの問題が起こっても男が責任をとらされることが少ないからでしょう。階級が上の男は、こうした女たちに対して優位な立場で火遊びを仕掛け、トラブルが起これば逃げることもできます。一方で上流階級の女の場合は純潔や身持ちの固さが尊ばれ、うかつに手を出すと責任を取らされます。チャールズの心には、階級が下で自分が手を出してもいいふしだらな女たち、つまり「悪い」女たちと、貞操を守ってやらねばならない「良い」女たちとの間に厳然たる区別があります。もちろん実際には性道徳と人格の良し悪しは全くの別問題なのですが、男性中心的な社会は性道徳や階級といったラベルだけで女の良し悪しを分けようとします。
ケイトの変身はこの区別を非常に曖昧にします。ケイトはメイドに変装することについて、チャールズが「とりわけ気ままな女しか」(第3幕第1場242行目)相手にしないような男なのかもと言っていますが、ケイト自身は身持ちの固い良家の令嬢であるにもかかわらず、「とりわけ気ままな女」と思われるようなフリをすることを恐れませんし、やすやすとそうした性質を演じます。男社会から「良い女」と見なされている女が「悪い女」のフリをするのは演技で可能になりますし、その逆も真で、この区別は常に揺らいでいます。ケイトの変身は面白おかしいものですが、裏には女を二種類に分けようとする男社会の考えをも笑いのめす、辛辣な諷刺がひそんでいるように見えます。
18世紀の観客がこうしたことを考えてお芝居を観ていたかはわかりません。全体的にあまりにも面白おかしいので、こんなことを考える間もなく楽しめます。しかしながら、『負けるが勝ち』は爆笑とロマンスの裏にいろいろな可能性を秘めた作品だと思います。どこか日本でも上演してくれるといいのですが……上演するなら、チャールズはミサワ風か、あるいは恋愛工学の藤沢数希風でお願いします。