ライターとして活躍する傍ら、大学教員として学生たちの悩みに寄り添ってきたトミヤマユキコさんと、同じくライターであり、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表として、これまで1000人以上の恋の悩みに耳を傾けてきたという清田隆之さん。そんなお二人がしたためた、悩める若者たちに向けたマニュアル本『大学1年生の歩き方』(左右社)は、大学新入生の指南書としてはもちろん、人生のあらゆる局面を通しての「転ばぬ先の杖」として携えていきたい一冊です。
お二人はこの本を、「大学を器用に泳いでいけるキラキラ系の学生でもなく、かといって完全にドロップアウトしてしまった人たちでもない、つまらないことで蹴つまずいてしまう“普通”の学生たち」のために書きたいと思ったのだといいます。“普通”のゾーンにいるがゆえに苦しさを外に吐き出せない人びとに寄り添い、「転んだって大丈夫!」と“普通”のテンションで語りかけてくれるトミヤマさんと清田さん。今回はそんなお二人から、大学空間を例に、他者とのコミュニケーションのとり方、異性と、そして自分との向き合い方について伺ってみました。「言葉のキャッチボール」が苦手な人、必見です。
女子はいつでも、1割2割の妥協を抱えて生きている
――この本は、「出会いの4月」から「別れの3月」まで、毎月トミヤマさんと清田さんが交代で文章を書かれていますよね。トミヤマさんが投げた球を清田さんがキャッチし、相手の考えや経験を尊重しつつ、さらに膨らませて返す……という形式が、まさに「言葉のキャッチボール」としか言いようがなく、模範的なコミュニケーションの図だなと感じていました。意外とこういうコミュニケーションの取り方が不得手というか、「言葉のキャッチボール」ではなく「言葉のドッジボール」になっている人は多いような気がします。これは大学時代にお手本にしたかった、と思いました。
トミヤマ 私は文学系の学部で教えているんですけど、学部によって学生の性格ってちょっとずつ違うんですよね。たとえば、文学みたいに唯一の正解を求めるのではないタイプの学問は、説得力を持たせようとして、やたら大きな声で発言するっていう人が一定数いて、それがドッジボール化する原因の一つかもしれないですね。私は学生時代は法学部だったんですけど、法学部では大きな声ってそこまで有効じゃなくて。模擬裁判などでは、自分の意見を言うより、相手の言うことを聞いて、反論も想定しつつ冷静に言葉のやり取りをしないといけないんですよね。それに、どちらの言い分がより正当性があるかっていうのは、周りがジャッジすることですし。でも文学部生同士で文学論を戦わせたりしていると、最終的に一対一の刺し合いみたいになって、相手が死ぬまで刺しちゃう、みたいなところがあるなあとは思います。勝った負けたの判断を他人に委ねられないというか。
――これは個人的な実感なのですが、とくに男子の方がその傾向が強かったような気がして……。
清田 確かに……男子の中には“プレゼンテーション”のことをコミュニケーションだと思っている人が少なくないと感じます。
トミヤマ 強い言葉を吐きすぎて教室に出てこれなくなるのは、自称インテリ系の男子の方が多いんですよ。授業の序盤でいいコメントをしたりして、教室内で「この子すごい!」みたいな扱いを受けると、どうも本人の中でハードルが上がってしまうらしく、学期末が近づくと授業に来なくなっちゃうんです。プライドが高いんしょうね。これが女子だと、居心地が悪くて不安だったとしても最後まで歯を食いしばって授業に出るという「我慢する」形になるんだけど、男子のプライドの守り方って、やっぱり「その場から去って自分を守る」形になりやすい。あまり雑に括りたくはないですけど、男の子の方がダメ出し一つするのにも注意が必要ですね。女の子は勝手に転んで勝手に立ち上がるって感じで、傷つくことへの耐性があるなと思うことが多いです。
――そういう男女間での違いというのは、大学以前の高校や中学校、小学校なんかの男子教育や女子教育に影響される面もあるのでしょうか。教員側も「こういうとき、男子にはこう言おう、女子にはこう言おう」というのを区別しているところが多いように思うのですが。
トミヤマ これは私の見立てですけど、男子の一生ってわりとリニアじゃないですか。たとえばいい会社に入るとか出世するとか、一つの目標に向かってまっすぐブーンと進んでいけばいいという意味では楽なんだけど、その線路から落ちると死ぬ、みたいな。
でも女の子の場合、そういうリニアな人生を送ることってあまりないですよね。女子校に行くのか共学校に行くのか、大学も地元に残るのか家を出るのか、結婚するのかしないのか、結婚して仕事辞めるのか続けるのか、子ども産んだらどうするのか……って感じで、要所要所に必ず分岐点があって、選択を強いられる。その選択もある種の妥協みたいなもので、100パーセント満足のいく選択なんてできないっていう人の方が多いと思うんですよ。常に1割2割は妥協とか諦め抱えて生きていかざるを得ない、つまり挫折が身近すぎて、あまり大きな出来事として捉えないように訓練されているんですよね。それがいいことかは分からないですけど……。
その点、男の子の方が、何かの拍子にポキって折れたときに、「俺の線路は一本しかないのにどうしてくれるんだ!」みたいな感じになる。「いやいや、全然脇道ありますけど」って思いますけど、彼らにはそれが見えないんですよね。
――清田さんは本の中で、男子の人生観を読み解くキーワードとして「達成と逸脱」を挙げられていましたが、そう考えると女子はまさに「妥協と選択」の人生ですよね。
清田 男性学研究者・田中俊之さんの著書『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(KADOKAWA)によれば、男性は自らの「男らしさ」を証明しようとするとき、「一番にならなきゃ」とか「あいつに勝たなきゃ」とかっていう“達成”の方向か、自分がどれだけダメでアウトローであるかを誇示したり、相手を見下すことで優位性を示したりっていう“逸脱”の方向のどちらかに振れやすいんだそうです。そういう、ある種の極端さにおいて誰かより上であるというのが、男社会において目指される男のあり方だ、という考えがあるから。だから男子のコミュニケーションがドッジボールになってしまいがちな原因っていうのも、そういうところにあるのかもしれない。
対話には“変化の与え合い”という側面もあると思うんですが、男性には変化を拒む傾向もありますよね。相手の言うことを認めてしまうと、自分の「負け」になる、みたいな感覚があるように感じます。僕はこの本を書くとき、トミヤマさんの話を受けて自分の中に生じた変化とか、自分の中で押されたスイッチみたいなものを起点に話を書き始めていたんだけど、もしかしたらそういうところがおもしろかったのかもしれない。
失恋に特効薬なし。どうにもならない苦しい時間を自分なりに生き延びて
――本の中で「なぜ男子は女子を人間扱いできないのか」という問いがなされていましたよね。私が大学に通っていたとき、サークルなどの仲間内で、交際相手をコンテンツとして消費するというような話を聞いたり体験することもありました。あれはどうして起こってしまうのでしょうか。
清田 まさに最近、桃山商事にそういう悩みを持った相談者さんが来たんだけど、背景にはホモソーシャルという問題があるように思う。それは同棲中の彼氏が、男友達のグループLINEに彼女の下着を撮影してアップしたり、生理のときにセックスして血がついたシーツ画像とか送って「さすがにモノが大きいですね(笑)」みたいな話で盛り上がったりしているのを見つけてしまった……という話だったんだけど、彼女の認識で言うと、家で一緒にいるときの彼はすごく優しくていい人なんだって。なのに、偶然見てしまったグループLINEではまったく別の顔を見せている。「これはどういうことなんですか?」っていう相談だったの。
彼女としては、「本当は私のことが嫌いで、だから裏であんな酷いLINEを送っているのでは……?」って認識だったんだけど、話しているうちに、もしかしたらそうじゃないのかも、と。男同士の会話では、下ネタで盛り上がるとか、チキンレース的な感じでどこまで晒せるか、どこまで醜悪なやり取りで盛り上がれるかっていう文法が求められていて、彼はそれに合わせた振る舞いをしていただけという可能性もある。だからと言って許す必要はないし、人権侵害も甚だしい話なんだけど……これも「女子を人間扱いできない」って話の一例だと思います。
トミヤマ 女子の間でも、「元カレをコンテンツとして消費する」ということはありますよね。特にひどい別れ方とかするとそういう扱いになる。
――交際相手と上手に別れるのって、恋愛の中で一番難しいかもしれません。みんな付き合い方は一生懸命勉強するけれど、本当は別れ方も学ばないといけないんですよね。
トミヤマ これはうちの母が言っていたことが真理だなと思うんですよ。「別れたかったらそいつの前でいきなりパンツ下ろしてウンコすればいいんだよ」って。言われた当時は単なる冗談だと思ってたけど、ある程度相手に嫌われてもいいから、別れるときは一気に切断しろって話だったんですよね。相手を傷つけたり、逆上させたりするかもしれないと思って色々と言葉を尽くせば尽くすほど、別れ話はこじれる気がします。
清田 「あなたが嫌いになったわけじゃなくて……」系の言葉はなかなか厄介だと思う。振られる側は、とにかく別れを受け入れたくないわけだから、それにすがってしまう。
失恋して我々の元にやって来る相談者さんには、「こうすれば大丈夫」「絶対復縁できるよ」みたいな、希望を持たせる言葉や即効性のあるメソッドを欲しがっている人も少なくない。早く楽になりたい、誰かに何とかしてもらいたっていう気持ちが強いからだと思う。でも、失恋に特効薬なんてないし、自分自身で「別れたんだ」っていう事実をとにかく受容して、暗い辛い時期をなんとか生き延びて浮上するしかない。「こうすれば楽になれますよ」って言葉を提供してくれる人にすがる気持ちはわかるけど、それは一種の洗脳にも似ている。苦しいかもしれないけど、相手はもうそこにいないから、“小さな死の体験”だと思って喪に服すしかない……。そのどうにもならない苦しい時間を、大学時代に一度や二度経験しておくとすごくいいと思う。
トミヤマ 学生時代の失恋って、まず自分がヒマだからどっぷり浸れるし、周りもヒマだからとことん付き合ってもらえていいですよね(笑)。
清田 そうそう。辛いときは友達に何回でも同じ話をしちゃってもいいと思う。そうしてるうちにだんだん自分が失恋の状態に飽きてくるから。そうやって、どうにもならなくなっちゃったときの自分なりの逃がし方を身につけていくのもいいよね。
トミヤマ そこはあんまりうまくすり抜けちゃわない方がいいのかもしれない。ちゃんと告白したり失恋したりして、振られた人と構内ですれ違って気まずくなったりするのもいい経験じゃないですか。卒業したら全部笑い話ですし! それに人生、何もかもスッキリとしていて、お天道様の下を堂々と歩けるなんてことはないんですよ。元カレが住んでいるから近寄りたくない街とかあるじゃないですか。でも、そういうってあっていいんですよ。その傷が比較的浅くて済むのが大学時代で、今振り返ると、本当に転び放題だったなと思います。
――本のあとがきには「転ばぬ先の杖」という言葉が出てきますが、これは「転ばないための本」ではなく、「安心して転ぶための本」だな、と思いました。
清田 世の中では「転ばないための方法」とか「転んでもすぐ立ち直る方法」とかが価値がある情報だと思われてるけど、「いくらでも転んでも大丈夫、立ち上がり方は自分でいくらでも身につけられるよ」っていうのが、この本で僕たちが言いたかったことですね。
トミヤマ 転んだ状態でゴロゴロしながら自分を観察する時間が持てる。そういう時間があることが、大学生の最大の武器であり財産ですよね。
大学教授が全然分かっていない「ハラスメントの条件」って?
――大学生活の中では、恋愛だけではなく、教員によるセクシュアル・ハラスメントなども問題になってきますよね。なぜ学内でのセクハラが後をたたないのでしょうか。
トミヤマ 大学教員のほとんどが「何がセクハラか」ということを分かっていないんですよね。みんな「感じ方の違いだ」って思いたがっているというか。自分は冗談のつもりで言ったことなのに、学生が過剰反応してハラスメントだと騒いでいる、と。でもね、そもそも大学空間に性的なことを持ち込んだ時点でそれはハラスメントなんですよ! 被害を受ける側もそう思っておいてほしいですね、大学空間に性的なことを持ち込まれたら、即座にイヤだと言っていいんだって。
清田 これは男性にとって耳の痛い話だと思います。というのも、大多数の男性は「性的な意思を持って迫ってなければセクハラじゃない」という感覚で、おそらく本人にセクハラをしているという意識はない。でも、自分に評価を下す存在である教員は、学生にとってある種の“権力者”なわけだよね。その権力勾配を自覚しないまま「かわいいね」「ご飯行こうよ」みたいな発言をしていると、先生としては生徒としてかわいがっているつもりでも、学生の方は「これを断ったら学校にいられなくなるかもしれない」という発想が出てくる可能性がある。自覚のないままセクハラしちゃう教員って、そこを分かってないと思うんだよね……。
パワハラにもアカハラにも言えることだけど、強くて偉い側にいる人が、自分の持っている権力に無自覚なまま、自分では普通だと思っていることをしちゃって、それによって起こる問題すべてがハラスメントになり得る。それをまったく分かっていない先生は、「俺は相手に触っていないし、勃起もしていない」「相手が自意識過剰なだけだ」とか言っちゃう。
トミヤマ こと恋愛のことになると、教員と学生は対等だと思ってしまうんでしょうね。俺は普通にお前のことが好きになっただけで、お前にも断る権利があったはずだ、と。しかし、当たり前ですけど、教員と学生の間にはものすごい権力差があるわけで。
どうしたって学生は、「先生は強い」と思い込みすぎてしまうんですよね。もちろん研究者としての部分はどれだけリスペクトしてもいいんですけど、セクハラやパワハラをされたときには、その人を一人の人間として見てほしいんです。そうやって見たときに「この人のやってることはダメでしょ」って思ったら、怒っていいんですよ。
「指導してくださるので」とか「これくらいのことは我慢しなくちゃいけないのではないか」みたいに、自分を責める方向で考える学生がいますし、みんな「事を荒立てたくない」って言いますけど、事を荒立てたくないのは教員も一緒なんですよね。むしろ、仕事とか名声とか、ハラスメントをしたことによって失うものが多いのは教員の方です。きっと学生の立場からはそうは見えないだろうし、私も昔はそういう構図が見えておらず、うっかりセクハラ案件に巻き込まれたりしてましたけど、実際は、学生の方が失うものも少ないし、立ち直るための時間もある。実際に教員をハラスメントで訴えるかどうかは個人の自由ですけど、もっと気持ちを強く持ってくれ、とは言いたいですね。
<後編へ続きます>
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トミヤマユキコ
1979年生まれ。秋田県出身。ライター/早稲田大学文化構想学部助教。『図書新聞』『タバブックス』『文學界』などで執筆中。著書に『パンケーキ・ノート』(リトルモア)がある。
清田代表/桃山商事
1980年生まれ。東京都出身。恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。失恋ホストやコラム執筆などを通じ、恋愛とジェンダーの問題について考えている。桃山商事の新刊『生き抜くための恋愛相談』(イースト・プレス)が9月に発売予定。