社会

「俺だってつらいんだ」に終始する男性の生きづらさ論/『介護する息子たち』著者・平山亮さんインタビュー【1】

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ケアを担う女性によって達成される男性の自立

――介護と同様に重要なケアが家事や育児といった「家の中のケア」ですよね。『週刊金曜日』(2017年6月9日号)で杉田俊介さんと精神科医の松本俊彦さんが対談されていて、育児について、「無為で無駄な時間」「社会的な生産性のない時間」と言えてしまってるんですね。稼得が社会的な生産性という認識が共有されているように見え、驚きましたが、これはずっとフェミニズムが指摘してきたことですよね。

平山 その通りです。私が尊敬している岡野八代さんが『フェミニズムの政治学』(みすず書房)のなかで述べられていますが、女性が行ってきたケアは、赤ちゃんのように、自分の手がかからないと死んでしまう、生存できない存在に呼びかけられ、引き寄せられるように行われているものだと。そういう弱い存在をほうっておけない思いがある一方で、それとは別に、ケア役割を離れて「自分自身がしたいこと」も確かにあって、そこで引き裂かれる思いは女性の場合にももちろんあるでしょう。しかし、その「自分自身がしたいこと」を「そちらの方が生産性があるから」というふうにばかり女性が語るのかは疑問です。

――子どもとしか過ごす時間がない、友達に会えない、趣味を楽しめないといった意味で、自分の時間がないという母親のぼやきは聞きます。「男性性」というものは「自立」と「自律」を志向している、と平山さんが『介護する息子たち』で分析されていました。その分析をとおして考えると、家事、育児を「社会的生産性がない」と言えてしまうのかもしれません。外に出て働かないと意味がない、と。しかし、近代以降はその家庭内のケアを女性がほとんど担ってきたわけですよね。

平山 女性にケアを任せ、家庭でそのケアにどっぷり依存して生きながら、そういう依存は、男性にとって「自立」を脅かすものではなかった。「自立」した男性の基準は、しっかり働きに出ていることであり、その「しっかり働く」は、自分や家族へのケアを自分以外の人に任せることが前提となっています。そういう意味では、男性にとっての誇るべき「自立」の達成とは、ケアを押し付けることのできる特定の女性がいることだと言えるでしょう。私がインタビューした息子介護者の中に、象徴的な例がありました。彼は既婚者で、親と同居しているのですが、妻に「あなたたち親子の面倒を看る気はありません」と断言され、そのため自分が親の介護をせざるをえなくなりました。後から気づいたのですが、彼は自分に妻がいることを医師や看護師には黙っていた。要するに独身を装っていたんです。妻に反旗を翻されて、同居の親の介護どころか自分の世話もしてもらえないということ、身近に女性がいながら自分でケアをせざるをえないことが、男性にとっていかに恥ずかしいことなのかがよくわかります。

――以前ある男性が、育児をするために育休を取ったら周囲の男性から「尻に敷かれてるね」と言われた、というような話をされていました。

平山 ケアを押し付けられる女性がいて一人前、と信じているからこその揶揄ですよね。ただ、男性のケアのなかでも、妻に対する介護は少し違います。外国の研究でわかっていることなのですが、亭主関白な男性ほど、妻を介護する役割にうまく適応できる。なぜなら、介護を通して自分の妻を徹底的に自分の庇護のもとに置けるという意味では、今までと一貫して支配者の地位にいられるからなんです。でも、親や子どもに対するケアだと「妻にやらせること」が自分の支配を示すことになる。男性がケア役割を担う意味は「誰相手か?」で変わるんです。

――それは興味深い話ですね。こうした評価を吹っ切って、主体的にケアの現場に立てる男性が増えないと、どうにもなりませんよね。

男同士の傷の舐め合いを理解してあげる必要はない

平山 さっき「男性が変わりたくても『社会』がゆるしてくれない」という話をしましたが、私たちがふだん気にする「社会」とは、実のところ、自分の周りの人たちのことです。メディアなどで流れている情報を自分の周りの人と話し、肯定あるいは否定しあうことで、現実感をもって受け入れていくのです。ここでいう周りの人は、必ずしも顔の見える関係だけではなく、例えば自分が属するオンライン・コミュニティの、直接は会ったこともない「仲間」の場合もあるかもしれません。

――少し話は変わりますが、「社会から除外されている気がする」と感じるのは、周囲に理解されている、受け入れられているという感触がないときかもしれません。

平山 社会の影響は、周りの人を介して自分のもとに届くものだし、逆に、社会の影響を緩和してくれるのも周りの人です。自分が社会の「ふつう」とは外れる価値に従って生きていたとしても、その価値に賛同し合える相手、その価値を受け容れてくれる相手とつながっていれば、「ふつう」から外れることで感じる居心地の悪さは減るでしょう。

――先ほどの育児休暇をとった男性が仮に、会社で肩身がせまいから妻に育児をお願いしたい、と既存の男女役割に基づいたジェンダー観でケア役割を放棄するとしたら、そのとき犠牲になるのは、妻の、職場やキャリアといった社会でのいどころだったり、自分で自分の食い扶持をまかなう自由、ですよね。

平山 私は、子どものときから「男子サークル」に馴染めず、その意味では「ふつう」から外れて生きてきました。だから、外れた自分を認めてくれる相手を探し、そういう相手とつながりをもてるよう必死でしたし、今でも必死です。そういう私にとって不可解なのは、「男だってつらいんだよ」と口では言う一方で、「ふつう」から外れることを可能にする社会関係をつくる努力は特にする気がないように見える男性の姿です。「俺たち、変わりたくても変われないよね」「そうそう、つらいよね」と「生きづらさ」を確認しあうだけならば、結局のところ、変わる気なんてほとんどないこと、それゆえに現状維持に加担していることを免罪しあっているに過ぎません。その上、現状を変えられない(その実、変える気もない)ことに折り合いをつけるための方法が、パートナーである女性に対して「俺だって大変なんだ」「わかってくれ」と「理解を求める」ことならば、ジェンダー関係は絶望的なまでに変わりません。

――男性学が注目され、女性側から、その「生きづらさ」に理解を示す反応もあります。

平山 ケア役割を押し付けられながら、配慮や気遣いと結びついた「あるべき女性像」のもと、女性はそういう男性のあり方に「理解」を示すことを求められてきました。そして、そういう女性の「理解」に乗っかることで、冒頭で述べたような不平等は維持されてきたわけです。要するに、男性にとって「変わる」ことは、いつまでも二の次にしておける問題、解かなくても別に困らない問題だと思っていることが、あからさまなのです。ひるがえって、女性にとってジェンダーの「ふつう」と格闘することは、文字通りの死活問題です。「家庭こそが女性の居場所」という「ふつう」のもとでは、女性は自分の就労機会を奪われながら、稼得能力を伸ばす男性のために無償のケアを提供することになります。そして、もし男性の庇護から出て生活を試みれば、直ちに貧困の危機に直面する。それでは個人としてとても生きていけません。そして、このような困難が男性の変わらなさに由来しているというのに、それでも女性が男性の訴える「変われないつらさ」を理解し続けてあげなければいけない理由は、どこにあるのでしょうか。
(取材・構成/鈴木みのり)

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鈴木みのり

1982年高知県生まれ。集英社『週刊プレイボーイ』編集者にナンパされ、2012年より雑誌などに記事を寄稿しはじめる。2017年より『週刊金曜日』書評委員を担当。第50回ギャラクシー賞奨励賞受賞(上期)ドキュメンタリー番組に出演、企画・制作進行協力。利賀演劇人コンクール2016年奨励賞受賞作品に主演、衣装、演出協力などを担当。2012年よりタイ・バンコクでSRSを受けるMtFを取材中。(写真撮影:竹之内裕幸)

twitter:@chang_minori

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介護する息子たち: 男性性の死角とケアのジェンダー分析