社会的弱者も、社会の一員という意識
地下鉄にハンケツで乗り込み、周囲に匂いを撒き散らしながらタッパの自家製パスタを食べ、大きなハスキー犬を無理やりトートバッグに詰め込むニューヨーカーだが、赤ちゃんには寛大だ。
車両内のベビーカーに嫌な顔をする乗客はまずいない。泣いている赤ちゃんに対しても同様だ。内心ではいらだっている乗客もいると思われるが、それを顔に出さないことがマナー、常識となっている。
ベビーカーを押す母親に席を譲る人も多い。ある混んだ車内で筆者は目の前に座っていた女性から、筆者の背後に立っていたベビーカーの母親に「ここに座りたいか、声をかけて」と頼まれたことがある。
ニューヨークの地下鉄は古く、バリアフリー法があるにもかかわらず、多くの駅にエレベーターが設置できないままとなっている。したがって母親たちはベビーカーを担いで駅の階段を上り下りする。しかし、ほとんどの場合、居合わせた誰かが手伝う。習慣的にまずは男性が声を掛けるが 、男性が居なければ 女性も手伝う。
ベビーカーの母親だけでなく、妊婦、高齢者、障害者にも席はごく当たり前に譲られる。さらに幼い子供と母親も頻繁に譲ってもらえる。筆者の息子は7〜8歳頃までよく席を譲ってもらった。子供自身のためでなく、手間のかかる幼い子供を連れた母親をラクにするためだ。譲ってくれるのは子育て経験のありそうな年代の女性や男性が多かった。だが、若い人もよく譲ってくれた。「お母さんも座りなさい」と二人分の席を空けてくれることもよくあった。
そうして譲ってもらう席だが、ベビーカー、妊婦、高齢者、障害者、いずれも断ることもある。次の駅で降りる、ベビーカーだと端っこの席でないと逆に大変、膝が悪く、いったん座ると立つのが難儀……理由はいろいろだが、「ありがとう、でも大丈夫です」と断る。断られたほうは「あ、そうですか」とそのまま座り続ける。それでおしまい。お互い、わだかまりはない。
こうした事象はニューヨーカーが優しいからとも言えるが、それよりもアメリカ人の「社会」への意識によって為されていると言える。ベビーカーが必要な赤ちゃんも、泣く赤ちゃんも、妊婦も、高齢者も、障害者も、そしてホームレスや物乞いをする人も、社会には必ず存在するのである。そして、そうした人々よりも少々健康状態や経済状態のよい自分が、ほんの少々の時間だけ立つ、ほんの少々の金額を差し出す、それを当然のことと考えているのである。
(堂本かおる)
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