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【第12回】トランス男子のフェミな日常「当事者性がもてはやされるとき」

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 大学生の頃、NHKの「ハートをつなごう」という番組に出たことがある。今から8年ほど前で、この番組における「LGBT特集」の第一弾だった。昨今ではLGBTについての報道など別に珍しくはないが、当時はLGBTという文字が新聞のテレビ欄に出るだけで大事件だった。そのときの私は学生の仲間たちと一緒にレインボーカレッジという団体をやっていて、番組ではこのメンバーたちとスタジオに出て、わちゃわちゃと言いたい放題をかましていた。

 レインボーカレッジは「LGBTの学生生活をよりよくするためにはどうしたらいいかを考え行動するためのインカレ・ネットワーク」という触れ込みの団体だったが、特徴は「とにかくうるさい」「ケンカが多い」の2点だった。ミーティングを5時間ぶっとおしでやって、最後に「どうやったらミーティングが短くなるか」について2時間話し合ったこともある。あまりにしゃべるので収録日も、我々の席だけ「途中からスタジオマイクのスイッチが入らなくなる」という事態が発生した。長い収録の後、ディレクターに文句を言いにいくと、今度は日付が変わっていた。多様性というのは面倒くさいのだ。特に、話したいことがみんなに大量に溜まっている場合には。

 当時「テレビに出て大変なこと、なかったんですか?」とよく聞かれたが、ネガティブな反応はほとんどなかった。むしろ肯定的なリアクションに困惑させられた。放送後、レインボーカレッジには応援や共感のメールが殺到。LGBT関係の集まりに顔を出せば、知らない人に勝手にほめられた。当事者としての発言を講演会で求められる機会も増えた。そのうち、ネガティブなコメントと同じくらい、ポジティブな反応も人を狂わせるんじゃないかと思うようになった。学校の先生たちがずらりと集まって自分の話を聞くなんていうのは間違っていると、講演後に考えこんでしまったこともある。言ってみれば「だれにも話を聞かれなかった子ども」だったからこそ、今こうやって重宝されているのだ。フツーがよかったと思った。こうやってチヤホヤされるような当事者性なんてない人間でいたかった。そう思わないと、人間として終わってしまうと思った。

 個人の心の傷をいやすのに「当事者性でチヤホヤされること」をつかうのは麻薬だ。「自分らしく生きているあなたが美しい」と誰かがいうときには、同じようにクソみじめでダサかったときの自分だって美しかったのだ。だって、当事者であることの6割ぐらいは、今でもそんなに格好いいものではないのだから。自分らしさなんてわからないし、誰かに決めてほしいとも思わない。当事者の語りを過剰に重宝したり、消費したりすることは、カタチを変えた差別なのだとも思う。

 いまでは後の世代のためにやっているからと、自分に言い聞かせている。みんなの好意や善意を、きちんとリアクションを「ろ過」してから受け止められる。「ファンです」と名乗る人がいれば、そっと心の扉をとざせばいいだけのことだ。自分の価値を決めるのは自分であって他の誰でもない。ファンよりもケンカできる友達のほうがよっぽどありがたいに決まっているじゃないか。

  昨今、人権講師になれると称する数十万円のセミナーのことが話題にのぼっている。様々な論点があるだろうけれど、自分の経験を語ることにそれだけ飢えている人たちがいるのかもしれないと思うと、なかなか胸が痛くなる。話を聞いてもらえなかった人たちが脚光をあびるのが人権の講演会だとしたら、私たちに必要なのは、ステージを壊して平場にすることではないだろうか。

遠藤まめた

1987年生まれ、横浜育ち。トランスジェンダー当事者としての自らの体験をもとに10代後半よりLGBT(セクシュアルマイノリィ)をテーマに啓発活動をはじめる。主にLGBTの若者支援や自殺予防に関わる。著書に「先生と親のためのLGBTガイド 〜もしあなたがカミングアウトされたなら」(合同出版)ほか。

twitter:@mameta227

サイト:バラバラに、ともに。遠藤まめたのホームページ

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先生と親のための LGBTガイド: もしあなたがカミングアウトされたなら