滝野文恵さんは現在85歳。53歳のときにアメリカノーステキサス大学で老年学修士号を取得。帰国後には63歳で日本初のシニアチアダンスチーム「ジャパンポンポン」を設立。85歳の現在でもステージに立ち続ける、日本最高齢のチアリーダーだ。
そんな滝野さん半生が綴られた『85歳のチアリーダー』(扶桑社)には、「近道を探す努力は惜しまない」「お土産のやりとりはうっとうしい」「30歳下のお金持ちと再婚したい」と同調圧力を吹っ飛ばすようなパワフルな言葉が並んでいる。滝野さんの大好きなコーラを飲みながら、独自の人生哲学についてお話いただいた。
近道を探す努力は惜しまない
――『85歳のチアリーダー』刊行後、周囲の反応はどうでしたか。
滝野 私の周りでは字が大きいと好評でした(笑)。
――本では滝野さんの半生がつづられていますが、様々なことに挑戦していて、そのステップの軽さに驚きます。
滝野 たぶん、失敗したこともあると思うんですけど、みんなうまく行った気になっていますね。私はとにかく、近道を探すんです。その努力は惜しみません。
大学に行ったのも、馬に乗りたいと思ったから。勉強したいためじゃないので、受験勉強は一切しませんでした。最初から点数は取れないことがわかっていたので、試験の時間には自分で問題を勝手に考えて、それについて書いた論文を提出して、入学しました。
――試験とは関係ないことを書いたんですか?
滝野 だって、勉強していないからわからないじゃない。それに、時間も余って暇だし。それは在学中もやっていて、「私はこれを勉強して、あんたはこっちね」って友達とふたりでカンニングの約束をしていて、科目を分けて勉強していたんです。
いざ試験で、私は教えてあげたのに、次の時間になったら彼女がよその友達と座っちゃって教えてもらえなかった。彼女に捨てられちゃった。しょうがないから、また勝手に問題をつくって答えて、試験はパスしました。そういう時代だったのよ。戦中派ですし。
――どういう時代なんでしょう(笑)。滝野さんが52歳のときに老年学を勉強しに米国留学を決めるエピソードもすごいですよね。
滝野 今の時代と違ってインターネットがないので、調べようがなく、とりあえず行くだけ行って現地で考えようと思ったんです。でも、現地の学校に通っていないと、学生ビザはおりません。そこで、アメリカ大使館に手紙を書いて「ビザをなんとか出してくれ」とお願いしました。そうすると「学生志願」という名前のビザを出してくれた。
いざ大学にいくと、大学院にはGREという試験のスコアが必要でした。ですが、スコアが全然足りません。そこで大学の学部長に「私は年だから待っていられない。許可書を出してくれ」とまた手紙をだして。無事入学が認められました。
――近道って意外とあるのですね。一方で、そういう手段を取るひとを「ずるい」って糾弾する声が大きいじゃないですか。
滝野 そういう見方もありますよね。でも、私はずるいとは思っていないもん。「熱心」よ。そうしないとアメリカには行けなかった。私の座右の銘は「ダメでもともと」。でも壁にぶち当たっても、何度もチャレンジしようとは思いません。一度断られたら、即、諦めます。それに、近道だけど、楽な近道はないんですよ。努力はもちろんしないと。大学院に入った後は必死に勉強をしましたよ。
ジャパンポンポン結成
――その後、63歳でチアリーディング団体の「ジャパンポンポン」を結成されますよね。
滝野 アメリカから送ってもらった本に「平均年齢74歳のチアリーディンググループがある」と書いてあったのを読んだんです。私もやりたいと思って、そのリーダーに宛に手紙を書きました。
とはいえ、住所がわかりません。アリゾナ州のサンシティで活動していることと、「サンシティポンズ」というチーム名はわかったので、サンシティの郵便番号を書いて、「サンシティポンズ リーダー様」宛に手紙を出したら、たまたま届いたんです。
――それで届くんですね。
滝野 偶然にもそのリーダーの方が郵便局で20年以上働いていたようで、届いたみたいですね。それで、色々と教えてもらいました。その年の暮れに、渋谷で友人を10人ほどあつめて、「やってみない?」と聞いたら、みんな乗ってきました。
そのままその足で近くにある青山学院大学の渋谷キャンパスに言って、バトン部の学生さんに声をかけて「教えてくれない?」と交渉して。その子が教えてくれることになって、ジャパンポンポンの活動がスタートしました。
――アポなしで行ったんですか。
滝野 そうです。行きません?
――行きません(笑)。それも戦中派だからなんですかね。
滝野 違うわよ。おばさんだから。おばさんはなんでもするのよ。
お土産禁止! の理由
――ジャパンポンポンをはじめて、周囲の声はどうでしたか。
滝野 最初にテレビに取り上げられたときは、「年寄りがこんなに足を出している」と話題になりましたね。カメラも足を映して。「ミニスカートは恥ずかしくないですか?」とも聞かれました。
私自身は、全く抵抗はなかったな。なんでかな。けっこう40代でもショーツ(ショートパンツ)履いて街を歩いていました。「あの人変」って陰で言われてたみたいだけど(笑)。
いまジャパンポンポンに来る人たちは、みんなチアの衣装を着たくて入っている方が多いですね。恥ずかしいどころじゃない。キンキラキン、それがいい。
――ジャパンポンポンの会則も興味深いです。
滝野 「55歳以上」「自称、容姿端麗」という厳しい入会資格があります。そのほか、冠婚葬祭や、年賀状、旅行のお土産、練習時の差し入れは禁止。
――なぜですか?
滝野 うっとうしいじゃない。旅行に行くたびにお土産買わなきゃいけないの。誰かがはじめちゃうときりがないんですよ。自分だけ抜けるわけにもいかなくなる。日本人はお土産を買うのに忙しい。アメリカ人と旅行をすると、自分のものだけ買って、お土産なんかほとんど買いません。それっていいなって思います。だから、一切やめましょうと言っています。
それでも、もってくるんですよね。それで怒って泣かせたりね。一回怒って「もうこの習慣やめる? お土産もってくる?」と聞いたら、「それは困る」というんです。でもやってしまう。一時期は私のいないところでやっていたらしいですね(笑)。そのくらい染み付いている。
徹底するのにものすごく時間がかかりました。もちろん、会に無関係な個人的な付き合いは自由ですよ。ちなみに私は息子や娘の義理の親たちにも、お中元なんかは一切やめましょうと言っています。気楽でいいですよ。
いい世の中になったよね
――もし今、滝野さんが30代の自分に会えるとしたら、どんな声をかけますか。
滝野 「働け」って言うかも。長い間、「良妻賢母」への思いが強かったんです。やっぱり戦中派だからかな。私の女学校の友達なんかは、「こんなに勉強したのに、家事や子育てばかりで生かせていない」と悩んでたんですけど、当時の私は「子育ては大事だよ」と女性が外で働くことに批判的でした。
父の会社で週二回働くことになって、その時も罪悪感を持ちながらやっていましたね。家事や育児の手を抜いたらダメだって思っていて、晩御飯が一品減ってしまうかも、鍋ものを出したら手抜きなんじゃないかとか。誰も文句を言っていないのに、私が勝手に思い込んでいました。
やっぱり昔の女性は大変だったと思いますよ。半数の女性が、できるもんなら離婚したいと思っていたんじゃないかな。勝手にそう決めつけていますけど(笑)。
男性は、女性が外に出て働くことを嫌がるし、夜に外出しようもんなら「俺の飯はどうなるんだ?」という感覚。一人で食えよって感じですよね。助けてほしいとは思わないけど、せめて自分のことくらいしてほしい。
50代で家を出てから一人で生活していますが、すごく気楽ですよ。食べたいときに、食べたいものを食べる。自分の分だけつくればいいんですから。寝たいときに寝ることもできます。30歳年下のお金持ちとなら再婚するかもしれません(笑)。ふふふ、都合いいでしょ。
でも時代は変わっていますよね。昔のように男は家に帰ったら煙草を吸って、何もせずにテレビを見ていたらいい時代じゃない。ジャパンポンポンの練習は月曜の夜、週に一度なのですが、最初のうちは夫が反対する人もいました。でも今は「自分でご飯たべてね」と抜けられるようになりました。いい世の中になったよね。
88歳で舞台からは引退?
――本の最後にジャパンポンポンの引退を考えていると書かれていて驚きました。
滝野 2020年に、ジャパンポンポンの25周年記念のチャリティーショーが行われている予定です。その時までには、ショーから引退しようと思っています。だって88歳よ、見たい?
――えー、見たいですよ。
滝野 私は見たくないな。これは私個人の美学です。練習は続けるかもしれませんが、舞台に立って人様に見せたくないんです。足も上がらなくなってくるだろうし、ぼけてくるだろうし。今だって、身体が固くなって、覚えが悪くなっているのを感じています。
こういうことをしていると、「100歳までチアをやってください」と言われてしまいますが、勝手に決めつけないでほしいですね。自分のしたいことをして、楽しく人生を終わらせたいんです。
でも、娘にはあんまり「そういうこと言わないほうがいいよ」と言われています。なにが88で引退だよ! まだまだいける! と88歳になった私は意外と思っているかもしれません(笑)。それは、その歳になってみないとわからないな。
(取材・構成/山本ぽてと)