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【第4回】妄想食堂「コーラとドリトスとファミチキしか食べたくない日」

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(c)飯塚めり

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 水がまずい。味のしないような、するような、苦いような、酸っぱいような、えぐいような、甘いような、旨味があるような、生臭いような、鉄っぽいような、一言で表現しがたい、気持ちの悪い味がする。疲れているときやストレスを感じているときはいつもそうだ。色々なものの味がわからなくなるけど、特に「水」が一番おかしな味になる。普段はおいしく飲んでいるのに。

 しょっちゅうおかしくなるものだから、私は自分の味覚が信用できない。昨日まで食べたくて仕方なかったものが、今日には匂いを嗅ぐのも嫌になる。いつもおいしいと思って食べている料理が、急に変な味になる。とくに複雑な味のものが食べられなくなる。味覚がおかしくなっているときは、とにかくわかりやすい味のものを求めがちだ。コーラにドリトス(サルサ味)にファミチキ。うー、舌がびりびりする。コーラとドリトス(サルサ味)とファミチキの味、としか言いようのない味。

 水を特別まずく感じるのは、たぶん「水味」というものがないからだと思う。これは「水味」、だからこういう味。そういうふうに、一言で表すことができない味。複製ができない味。これがたとえばコーラだったら、一口飲むだけで「ああ、コーラの味だな」と納得することができる。コーラの味を表現するのに、「コーラ味」以上のことを考えたり、言葉を尽くしたりする必要もない。ガムやグミやキャンディーに「コーラ味」の一言が添えてあるだけで(それからちょっと茶色くするだけで)、私たちの舌は簡単にそれを「コーラ味」だと思い込む。

 水の味は複雑で、口の中で探れば探るほど奥行きのある味がする。味がしない飲み物だと思われているけど、本当は味わい深い、というより、味覚に訴えてくる情報量がすごく多い。多いだけじゃなくて繊細だ。だから疲れきった舌と頭では、うまく処理ができない。「現代人は食べ物そのものではなく情報を食べている」なんて言われるけれど、ものを食べるとき、情報によって補助線を引かれている部分はかなり大きいと思う。

 たとえば、一人ひとり違っているはずの個人を男女の枠にくくること。「女性」はこういうもの、「男性」はこういうもの。世の中には「女が怒ったときはこうやって対処しよう」「男はこういう生き物だから許してあげよう」みたいな話がそれはもう大量にあって、ある程度は当たっている部分はあるにしても、すべてがその枠に収まるわけじゃない。

 本当は、枠組みや属性を抜きにして、一からその人個人のことを考えられればいいのだ。でも疲れていたり、ストレスに晒されたりしていると、一言で表せる以上のことを感じ取ったり、考えたりするのがどうしても億劫になるのかもしれない。だから私も、コーラとかドリトス(サルサ味)とかファミチキとかを選んでしまう。健康によくないとわかっていても、ついジャンクでわかりやすい味のものを食べたくなってしまうし、どうしても分かり合えない人に対してもつい「男だからしょうがないよ」とか思ってしまいそうになる。

 考えるためには体力がいる。だからもう、ドリトスしか食べたくないみたいなときだってあるし、コーラばっかりがぶがぶ飲んじゃうときだってある。人のことなんていちいち考えていられないときだってある。そのことを、私はあまり責める気にはなれない。

 今日も水はおいしくない。だけどおいしくない水を口に含んでは、その味について考え込んでしまう。「水味」なんてものは存在しない。じゃあこれは、一体どんな味だろう。やっぱり考えるのがしんどいときは、静かに体を休めよう。そのうち体力が戻ってきて、また水をおいしいと感じられるときもくるはずから。

餅井アンナ

1993年生まれ。ライター。messyでは家族やジェンダー、生きづらさについての問題を取り上げた文学作品のレビューなどを書いています。食と性のミニコミ誌『食に淫する』制作。

twitter:@shokuniinsuru

http://shokuniinsuru.tumblr.com/

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