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生理用ナプキンを生んだ“ニッポンのノブレス・オブリージュ”

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  日本で初めて(世界初でもある)現在のような使い捨て生理用ナプキンが発売されたのは、今から56年前、1961年の11月のことである。

 坂井泰子さんという1人の若い主婦が、女性が安心して月経日を過ごせるようにしたいとの一念から会社(のちにアンネ社と命名)を立ち上げ、協力者たちとともに発売した「アンネナプキン」は、瞬く間に日本中の女性たちの支持を得、ただひたすら憂鬱なものとされていた月経のイメージそのものまで変革した(月経を「生理」と呼ぶのはNG!?  アンネナプキンの登場によって劇的に変わった月経観)。

 アンネ社がアンネナプキンを発売しなくても、遅かれ早かれ他のメーカーが使い捨てナプキンを発売していただろう。しかし坂井さんと、アンネ社に出資したミツミ電機社長の森部一(はじめ)さん、そして、森部さんからアンネ社のPR課長に抜擢された渡紀彦さんなくしては、あれだけの月経観の変革を成し遂げることは不可能だった。

 この3人がアンネナプキンに注いだ熱意が、そのまま形になったような広告戦略――大塚清六による清新なイラストを使った新聞の一面広告や、業界初のテレビコマーシャル等――が、月経観を変え、日本の女性たちの生活、さらに人生までも大きく変えたのである。

 しかし、アンネ社の寿命は短かった。

 1971年に経営不振に陥った親会社のミツミ電機が、アンネ社の株式を売却。社長から代表権のない会長に棚上げされた坂井さんは、1988年に社を去り、1993年にアンネ社はライオン株式会社に吸収合併された。

 今から20年ほど前、私がアンネ社とアンネナプキンについて本にまとめようと思ったとき、すでに森部さんと渡さんは亡くなっていた。坂井さんにはなんとか連絡をとることができたが、代理人という方が現れ、直接の取材は断られた。しかしメディアであれば「一切お断り」のところを、「学究の人だから」という理由で間接的な取材は許された。

 坂井さんは、アンネナプキンが発売されていた当時、新聞広告にも出られていたし、婦人雑誌にもたびたび登場されていた。その坂井さんが、なぜ一切、メディアに姿を現さなくなったのか。それは、アンネ社がライオンに吸収合併された頃の揶揄的な報道のせいではないだろうか。

 当時、アンネ社や坂井さんの功績について触れたメディアもわずかにあったが、むしろ「自らの生理(月経)を実験に使うため、子どもも作らず仕事に励んだのにその甲斐なく云々」といったように揶揄的に扱うメディアの方が多かった。その背景には、まだ珍しかった「女社長」に対する偏見や、所詮「女のシモのもの」を扱う会社という視線があった。

 ライオンの広報部でさえ、週刊誌の取材に対し、「アンネという名前も、今となってはネーミングがダサい」「(坂井さんは)性格がおハデ」などと、否定的なコメントをしている。私もアンネ社について調べ始めたとき、真っ先にライオン広報部に電話をし取材の申し込みをしたのだが、「担当者から折り返します」と言われたきり、もう20年も待たされている。

 坂井さんの名誉のために書いておくが、坂井さんを知っている人は、誰もが「明るい」「優しい」「大らか」「天真爛漫」と評している。週刊誌の記事はさておき、なぜライオンがアンネ社や坂井さんに対して「冷たい」のか、謎である。

 前置きが長くなってしまったが、ここからが本題である。

 今春、私は坂井さんをよく知るというMさんという男性から、出版社を通して手紙をいただいた。Mさんは坂井さんと同い年(1934年生まれ)で、私がアンネ社についてコメントした新聞記事を読んで、連絡をくださったのである。その後、何度かお会いして坂井さんについてお話をうかがうことができた。

 Mさんは11歳のとき満州で終戦を迎え、路上で煙草売りをしながら何とか生き延び、帰国を果たした。しかしその後も極貧生活は続き、奉公先から中学校へ通った。数年遅れで夜間高校へ入学し、そこで出会ったのが当時東京大学大学院生のK先生だった。

 K先生はいつも授業が終わると、空腹の生徒たちを蕎麦屋へ連れて行き、好きなだけ食べさせてくれた。そして、長期休暇になると自分の家の別荘を生徒たちに提供し、スキーも教えてくれた。

 自宅に招いてくれたこともあった。そこではK先生のお母さんと3人の妹たちがご馳走を準備したり、ピアノを弾いたりしてMさんたち夜間高校の生徒たちを歓待してくれた。一番、活発で印象的だったのが末の妹で、その人こそ結婚前の坂井泰子さんだった。

 坂井泰子さんの第一印象について、アンネ社のPR課長だった渡さんは「上流階級の奥様」と書き残しているが、Mさんのお話から、ご実家も相当裕福だったことがうかがわれた。

 Mさんは、特に語学に秀でていて、大学進学を希望していたが、経済的な事情で諦めざるをえなかった。それを知ったK先生が、大学進学費用を出してくれたのだという。

 Mさんは、「もしK先生に出会っていなかったら、今の自分はいなかった」としみじみと語り、「こういうのをノブレス・オブリージュというのだな、と思いました」とおっしゃった。

 その話をうかがって、私も心にストンと落ちるものがあった。

 坂井泰子さんが成し遂げた日本の生理用品革命は、まさにノブレス・オブリージュ(高貴なる者が果たすべき義務)だったのだと。

 ノブレス・オブリージュなどという言葉は、別世界の話だと思っていたが、女性たちの最も身近な日用品が、その精神によって生まれていたのである。

 もちろん、坂井さんご自身にその自覚はなかっただろうが、「女性のために」という一念で始めたナプキン開発から潔い引退までを、これほど簡潔に表す言葉は他にないだろう。

田中ひかる

1970年東京生まれ。著書に『月経と犯罪――女性犯罪論の真偽を問う』(批評社)、『「オバサン」はなぜ嫌われるか』(集英社新書)、『生理用品の社会史――タブーから一大ビジネスへ』(ミネルヴァ書房)など。

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生理用品の社会史: タブーから一大ビジネスへ