社会

社会は頑張って異性愛者を育んでいる 同性愛は先天的か後天的かの議論を超えて

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先天的か後天的かを越えて 〜正しそうな欲望から疑え〜

同性愛は先天的か後天的か——この議論には今のところ、ろくな結論が存在しません。しかしこの議論について、確かに言えることがいくつかあります。ひとつは、同性愛の発生原因にばかり注目してきた私たちの社会が、異性愛を自然なものとして自明視し続けてきたということです。しかし実際には、私たちはとても頑張って異性愛者の育成に励んでいます。もうひとつは、同性愛者を差別する人は、同性愛が先天的か後天的かに関係なく差別するということです。例えば私が同性愛者を差別したいと思う人間だったら、先天的でも後天的でも関係なく差別するでしょう。「先天的? だったらお前らは生まれた時から劣っている種類の人間なのだな」、「後天的? だったらお前らのその劣った性癖は矯正されるべきだな」と。事実こうした主張が差別主義的な人たちによってされてきた歴史があり、それへの対抗言説は「先天的か後天的かなどどうでもよい。差別をやめろ」しかありえません。

同性愛以外にも、両性愛、パンセクシュアル、デミセクシュアル、アセクシュアル、小児性愛、SM、もっと言えば寝取られ、近親相姦、二次元、欠損萌えや、特定の民族へのフェティシズムなど、人間の性のあり方は多種多様であり、その欲望の発生原因が何であったとしても、そうした欲望を持っていること自体を根拠に差別することが正当化できるわけがありません。

科学の大発見を目指すわけではないなら、議論すべきは、そうした欲望がどのように語られ、優劣の序列を付けられているか——つまり、言説がどの欲望に「正しい」「許容されるべき」という特権的立場を与え、どの欲望に「正しくない」「忌避されるべき」という烙印を押しているか——でしょう。

その上で、なぜそうなっているのか、特定の欲望を正しいとすることで誰が得をしているのか、特定の欲望が正当化される根拠に不正義が混じっていないかを考えるべきだろうと思います。例えば、英語圏から発展途上国に旅行した白人が英語のおぼつかない現地の人と恋に落ちる映画がたくさんあリます。そこで美しいラブストーリーとして表現されている欲望は、果たして人種差別や民族差別、植民地主義と無関係だと言えるでしょうか。

問題があるのではないかと疑われるのは、いつも「正しくない」とされている欲望です。しかし、むしろあるかもしれない問題が隠蔽されている「正しい」欲望こそ、疑ってみる必要があるのではないでしょうか。

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マサキチトセ

評論家(クィア理論・フェミニズム・社会運動論)。LG(B)T。関心は貧困、セックスワーク、刑務所制度、LGBT運動。YouTubeでマイノリティフレンドリーな『クィア英会話』っていうチャンネルやってます。

ブログ:包帯のような嘘

YouTube:クィア英会話《マサキ》-Masaki

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