そもそもケータイ小説とは何か。その問いから前回は、まずケータイ小説というのは「なんとなくポエム的な体裁」をとるものである、という話をした。今回はその続きとして、「じゃあそのポエムっていったい何なのか」と、「ポエムがケータイ小説で果たす役割とは何か」、を考えてみたい。
ポエムとは「なんかふわっとした言葉」。
「ポエム」とはなんだろう。
言葉の本来の意味はもちろん「詩」なのだが、ことネット上において、「ポエム」というのはもはや「詩」を意味しない——そう言っても過言ではない気がする。じゃあ何を意味するのかというと、抽象的な言葉、「なんかふわっとした言葉」という程度の意味あいが強いのではないだろうか。少し前のことだが、ビジネス系メディアには、こんな記事が書かれたこともある。
・自己陶酔な方へ、「ポエムの対義語は自虐です」 ネットにポエムを書きまくる4つのグループとは?
>何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉が、政治やビジネス、ネット、J-POP界隈に蔓延している。(上記事より)
「何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉」。それが、この記事が示す「ポエム」であるようだ。ボードレールが聞いたらブチギレるかもしれないが、ネットスラングとしてのポエムとpoèmeは違うんだということで許してもらうほかない。
ある文章群を見て、「何も語っていない」と——「ふんわりしている」と思うのはどうしてだろう? 簡単だ。「具体的でない」からである。
1. 「大政奉還とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的出来事である」。
2. 「あるところに、えらい人がおりました。えらいひとは大変でした」
ふんわりしているのは後者だ。①を読んで「ふんわりしている♡」と思う人は奇人だし、②を読んで「具体的だ」と思う人は危険人物である。「言っていることの意味はわかるが、特に具体的な、現実に結びついた情報ではない」度合いが強いほど、基本的には「ふんわり」した印象になる。現代の日本、そしてネット上においては、この印象への揶揄として「ポエム」という言葉が使われることが非常に多いと言える。
ケータイ小説に具体性は不要
私自身は、「ポエム」をそこまでネガティブな意味で使おうとは思わない。ただ、ケータイ小説において重要な役割をはたす「ポエム」が、ボードレールやリルケの詩と、「ネットポエム」のどちらに近いのかと聞かれたら後者だと答える。そちらの方が、ケータイ小説とは明らかに相性がいいのだ。
そう、ケータイ小説には、「ふんわり」が欠かせない。いや、ふんわりが欠かせないというか、「具体性」がいらないのだ(※1)。
ケータイ小説作家の映画館さんにインタビューしたとき、映画館さんが「具体的な地名は想像してほしくないから書かない」と仰っていたことが印象的だった。「魔法のiらんど」の編集者氏によれば、「ほとんどの作家が同じことを言う。具体的な場所を想像してほしくないとみなさん思っている」とのことで、それが全体的な傾向かつ重大事項であることがうかがえる。
どうしそうなるのかといえば、具体的であればあるほど、その具体性から離れた属性を持つユーザーにとって、その物語が遠いものになってしまうからだろう。多くのケータイ小説ユーザーは、より「私」に近い存在、より共感しやすい物語を求めている。余計な具体性によって「私との距離」を示されることは、望んでいないことが多い。書き手も、その読み手の中から出てくることがほとんどであるため、両者の意識はおおむね合致することになる。
その結果としてケータイ小説は、「固有名詞が極端なまでに出てこない」という特徴を帯びることになった。現実的な地名や学校名を出さないのはもちろんだが、洋服のブランド名も、聞いている音楽の名前も、読んでいる漫画の名前も同様だ。「架空の地名」「架空の店名」といったものも、よっぽどの理由がない限り出てこないことが多い(※2)。
もちろん、女子高生のヒロインが通っている高校名や、ヒーローが所属している暴走族のチーム名くらいはかろうじて出てくる。その暴走族が「関東ナンバーワン」と言われていることから、舞台が関東であることくらいは想像できたりもする。しかし、あとは「繁華街」「町はずれの倉庫」「家」といった言葉が出てくるくらい。あまりに情景描写がないため、「だいたいこんな感じの場所だろう」とすら想像しづらい。しかしそれはひるがえすと、「どう想像したってかまわない」ということなのある。
書かれていることが抽象的であればあるほど、多くの読者にとってそれは「勝手に解釈できる物語」になる。街はただ「街」という概念として頭に入れておけばいいし、ヒロインを「自分と近い存在」として再解釈することも容易い。つまり、「あまり仲の良くない両親と文京区一丁目に暮らしている、偏差値62の私立高校に通う山田恵子」よりも、「孤独な少女ケイコ」の方がより“匿名的”で、そして「私」に近いのである。
「ふんわりした言葉」は、「これはあなたの物語」と語る
ケータイ小説とは、「自分にとって遠いかもしれない、異物かもしれない存在の物語を読み解く快楽」を提供するコンテンツではない。では何を提供しているのか? 私の見方でいえばそれは、「『これは私の物語でない』と思わせる要素を極限まで除去した、安全な世界」である。
ここで重要なのは、「安全な世界」をつくるのに必要なのは、要素の付加ではなくて、除去であるという点だ。現実とひもづくさまざまな具体性を、極限まで削っていった先に残る物語こそが、ケータイ小説ユーザーにとっての「安全な物語」なのである。かつて人気を博した、固有名詞をちりばめることによって空気感を作り上げていた小説——たとえば田中康夫の『なんとなくクリスタル』(1980)、村上春樹の『風の歌を聴け』(1981)などとは、正反対の姿勢だと言える。
具体性を、固有名詞を削りに削っていくから、文章はどんどん抽象的に「ふんわり」していく。ケータイ小説を「ポエミィだ」と感じる理由はそこにある。だからそれは、時にビジネスマン向け記事で揶揄されるような世界へと近づいてもいく。しかし、ケータイ小説を「何も語っていない言葉」のカタマリとして見ることは、私はしない。
たしかに、素人女性の書くケータイ小説の文章のかなり多くは、「何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉」である。「ヤクザを好きになっちゃった……」ということを表現するためだけに何十行もポエミィな文章が並んでいる、そんな作品が、サイトを少し漁れば1000作くらい網にかかるだろう。
でも、繰り返しになるが「それでいい」のだ。彼女たちが「何かを語っているようで何も語っていない抽象的な言葉」で表現しているのは、「これは私の、そしてあなたのための物語である」「この世界に、私たちを脅かすものはない」というメッセージだ。そして多くのユーザーもまた、それを探している。
「……むかしむかしあるところに、良いおじいさんが住んでおりました。そしておじいさんの家の隣には悪いおじいさんが住んでいました」
幼児のころ、私はこういった物語の出だしを、なんの疑問も脅威も感じずに聞いていた。これが「1894年、愛知県東三河北部に、松野昭三(83)という男性が住んでいました」というはじまりだったら、はたして母の言葉を最後まで聞けていたかどうか。いつかどこかにいたおじいさん、という単純なとらえ方で大丈夫だと示されていたからこそ、私はその物語を安心して楽しめたのだと思う。私から見ると、ケータイ小説が提供しているのも、そういった安全なのだ。
では、その「安全」の上に、ケータイ小説はどんなストーリーを紡ぐのか。どんなストーリーであれば、その物語はケータイ小説としての要件を満たすのか。それを次回は考える。
※1 念のため書いておくが、「全て」の作品がそうというわけではない。あくまで全体的な傾向としての話である。
※2 いずれまた語るつもりなので今回は省略したが、これには少数の例外がある。代表的なのが車種だ。物語のヒーローとして暴走族やヤクザが配置されている場合、彼らが乗り回している車についてだけはしっかり「ベンツ」や「メルセデス」と書かれることが多い。ベンツやメルセデスといった名詞が、記号として有用であることの表れだろう。