1961年に発売された使い捨てナプキンは、女性たちの絶大な支持のもと急速に広まり、60年近く経った今も日本の生理用品市場の主流を占めている(月経を「生理」と呼ぶのはNG!? アンネナプキンの登場によって劇的に変わった月経観)。
これに対してタンポンは、つねに逆風に晒されてきた。2017年12月現在、日本でタンポンを製造販売しているのはユニ・チャーム一社である。
今回(戦前編)と次回(戦後編)は、「タンポンの不遇の歴史」を紹介したい。
「ナプキン」という言葉が生理用品に使われるようになったのは、1960年代のことだが、ドイツ語で「綿球」「止血栓」を意味する「タンポン」という言葉は、それよりも前に、西洋医学とともに日本へ入ってきた。
とはいえそれは用語の話であり、女性たちは太古の昔から手近なモノ(時代によって様々)をナプキンのように当てたり、タンポンのように詰めたりしながら経血を処置してきた。
日本で経血処置の方法について云々されるようになるのは、明治時代以降である。
西洋医学を学んだ医師たちが、おもに上流階級の女性たちを対象に「月経とは」「月経時の摂生法」「経血処置の方法」といったテーマで、講演を行うようになった(講演内容は後日、婦人雑誌に掲載された)。
なぜ上流階級の女性たちが対象かというと、「富国強兵」を目標に掲げる国が「母体」と見なしていたのが「上流階級の体質優秀なる女性」だったからである。彼女たちの月経を管理し、「優秀な国民」を産ませることがエリート医師たちの役目だった。
「いわゆる貧乏者の子沢山の結果は(中略)、虚弱なる国民の繁殖を来たし、国家は常にこれらを救済する手数と費用とに忙殺さるる」(1)という意見に代表されるように、この頃は国民の「質」が重視されていた。「数」が必要とされ、「産めよ増やせよ」と言われるようになるのは、昭和のアジア太平洋戦争期に入ってからのことである。
明治のエリート医師たちのほとんどが、経血を処置する際、「詰めもの(タンポン式)」はやめて「当てもの(ナプキン式)」にするようにと述べている。
例えばある医師は、「下等社会」では「シタク」(木綿を縫い合わせて作った丁字帯のこと)を用いずに「直に膣内に紙の球を送入(ママ)する」女性もいるが、それは有害で、「これがため治しがたき子宮病を発する」と述べ、「詰めもの」に反対している(2)。
それだけ不潔な紙や布を膣に詰める女性が多かったのだろう。この約10年後には、「清潔なる物質」つまり脱脂綿であれば、詰めても構わないと説く医師も現れる。
「出血を止むるは多くは紙類を用うるは危険なり。故になるべくは清潔なる物質をもってこれに代うるをよしとす。その物質(即ち脱脂綿)は、薬舗(筆者注:薬局のこと)にあるなり。これを程よく切りガーゼという薄き布に包み球になし、一度に三、四個を以って膣内に充て入れときどき交換せば最も安全というべし」(3)
脱脂綿は1886(明治19)年に『日本薬局方』(医薬品の規格基準書)に指定され、1891(明治24)年に起きた濃尾大震災(全壊家屋14万余、死者7200余人)を機に一般に普及し、徐々に紙や布に代わって経血処置にも用いられるようになった。
この記事が掲載されたのは、1897年のことだが、 「その物質(即ち脱脂綿)は、薬舗にあるなり」とわざわざ説明していることから、まだあまり普及していなかったようだ。
いずれにしても、「詰めもの」を認める医師は少数派だった。
この4年後にはある医師が、脱脂綿を用いる女性が増えてきたものの「大抵は膣内に挿入している」ため、「しばらく経って出すことができないで、否でも応でも医者に掛からなければ出すことが出来ぬというような」ことになり、「ほとんど一生医者に掛かっても癒(なお)らぬというくらいな激しい頑固な病気をひきおこすようなことがあります。大変にどうにも恐ろしいのでありまする」と述べている(4)。
この医師は、そうならないためのお勧めの経血処置用品として、「西洋婦人の用ゆる所の月経帯という物」を紹介し、自分もこれを真似たものを製造販売すると宣言している。そしてその直後、実際に販売を始めている。1901(明治34)年のことである。
これが日本で最初に商品化された月経帯(初期はベルトに吸収帯をつるすタイプ。その後ズロースタイプなど多様化する)だが、あまり売れなかったようである。値段は日雇い労働者の日当と同じくらいだった。
以後も、「たとえ消毒せる脱脂綿等を使用するにありてもこれを膣内深く挿入することは厳禁」で、「これがため甚だしきは頑固不治の疾病を起こすの原因となる豈(あに)恐れざるべけんや」(5)、「この膣腔に脱脂綿ないし他の物を詰めて血液の流出を防ぐということは全然やめていだたきたい」(6)といった医師たちの意見が頻繁に見られることから、「詰めもの派」が多かったことがわかる。
少なくとも、医師たちが「啓蒙」の対象とはしていなかった労働階級の女性たちは、ほとんどが「詰めもの」に頼っていたようだ。
実際に女工として働いていた女性は、月経のときは布の球を芯にして脱脂綿でくるんだものを膣の奥と手前の二箇所に詰めていた。そんなことをしているのは自分だけだと思っていたら、ある日共同浴場の洗い場の金網に、同じような脱脂綿の球がいくつも転がっていたという(7)。
この頃は月経中の入浴を禁じる意見が多かったが、女工たちは入浴して清潔を保っていたようだ。医師の意見に接する機会などない女工たちは、経血処置にせよ入浴にせよ、経験にしたがって実際的な方法を選択していたのだろう。
国産月経帯第1号が発売されたあと、ぽつぽつと月経帯が発売されるようになる。これらの広告文からは、「詰めもの」がよくないとされた別の理由が読み取れる。
「婦人は股間の美を如何に保つか」というキャッチコピーが目を引く「ゴム製猿股式月経帯」の広告には、「子宮病、生殖器病等」を防ぐほか、「春期発動期の処女方にありては恐るべき自涜を防ぐ」とある。つまり、「詰めもの」をすることは「自涜」を招くと考えられていたのである(8)。
当時としては珍しかった産婦人科病院を設立し、その後、大阪府医師会の初代会長となった緒方正清の『婦人家庭衛生学』(丸善、1916年)には、「詰めもの」と「手淫」との関連が、はっきりと書かれている。
「女子は月経という生殖器に充血を起こすべき時があるので、この前後には、生殖器の亢奮性が高まり、手淫を行うものであるから、日本風の月経時のたんぽん、日本人の所謂しのび綿、或いはしのび紙なるもの、或いは西洋人の月経帯と名づくるものは注意すべきものである」
緒方は、月経時には手淫をするものと決めつけている。さらに「たんぽん」「しのび綿」「しのび紙」といった「詰めもの」のほか、月経帯の使用にも注意を促しているが、これは月経帯が丁字帯と比べ、より体に密着するため、そうしたイメージを抱きやすいのだろう。このような見方は、戦後も引き継がれていく(詳しくは次回)。
同書が出版された大正初期には、「清潔球」「ニシタンポン」といった製品が発売されている。これらは単に脱脂綿を丸めたものであった。
経血処置を目的として開発されたタンポンの第1号は、1938(昭和13)年に、合資会社桜ヶ丘研究所(現エーザイ株式会社)から発売された「さんぽん」である。桜ヶ丘研究所は、田辺元三郎商店(のち東京田辺製薬。合併により現在、田辺三菱製薬)に在職していた内藤豊次が設立したのだが、「さんぽん」発売と同年、 田辺元三郎商店から「シャンポン」という和紙製のタンポンも発売されている。
「さんぽん」は脱脂綿を圧縮した砲弾型のタンポンで、20mlの経血が吸収できたという。12個入りで45銭。当時、アンパンが1個5銭、ビール大瓶1本が41銭だった。
既製品タンポンの登場は、当然ながら医師たちの猛反発を招いた。東京女子医科大学創設者の吉岡弥生は「女の神聖なところに男以外の物を入れるとは何事ぞ」と批判している。
また、日中戦争の開始時期と重なったことから、原料不足により製造ができなくなってしまった。中国から綿花が買えなくなった上に、脱脂綿は軍隊の使用が優先されたのである。太平洋戦争が始まった1941年には、国家総動員法に基づいた生活必需物資統制令によって脱脂綿は配給制となった。
タンポンの製造販売は、始まるや否や戦争によって頓挫してしまったのである。
(1)『婦人衛生雑誌』319号、1916年
(2)同上1号、1888年
(3)同上88号、1897年
(4)同上137号、1901年
(5)同上177号、1904年
(6)同上246号、1910年
(7)「女たちのリズム」編集グループ編『女たちのリズム――月経・からだからのメッセージ』講談社文庫、1988年
(8)『女学世界』1909年12月号