ケータイ小説の世界では一貫して、ここでしか描けない類の物語が繰り返し生産され続け、強い支持を集め続けてきた。一般的な少女マンガや少女小説で堂々ヒロインをはれるような少女たちだけではなく、そこからははじかれるような属性の少女・女性たち――「少女は清らかな存在であるべき」というコードから逸脱した存在も、ここでならば、救済や回復の物語の主役になれる。
この「はじかれる属性」のことを、ケータイ小説ブームの頃の大人たちは「ギャル」という言葉でくくっていた。特に批評の世界では、「ギャルが自分たちのための物語を紡ぎ始めた」という言い方がよくされた。だからこそ、ギャル文化が衰退していくとともに、ケータイ小説も消滅したとみなされたのである。
しかしケータイ小説は残った。ギャル文化とともに潰えはしなかった。なぜなら、既存の少女向けコンテンツからはじかれていたのは「ギャル」という自己表現スタイルではなく、「ギャル」に付随すると世間から見なされていた、「清らかでない」という一種のタグの方だったからである。「切ナイ実話」から「溺愛」へとケータイ小説のテイストが変わっていく中でも、この「清らかでない少女をも救う」という一種の方針は脈々と受け継がれた。
ただ前回の終わりに書いたように、私はこうしたケータイ小説物語の芯にある考え方、すなわち「いくら『汚れ』ようとも、『真実の愛』を見つければ救われるという希望」について、大きな危うさを感じてもきた。そして、そこから目をそむけるべきではないと、あくまで個人的にだが思っている。
「どん底の少女」を、「男性による支配」が救うという世界観
ケータイ小説の危うさとは何か。それは、多くの作品が「王子さまがいないと絶対にヒロインが救われない物語」を描いていることに他ならない。「いくら『汚れ』ようとも、『真実の愛』を見つければ救われるという希望」の裏には、「『真実の愛』を得られなければ、『汚れた』少女は絶対に救われないという絶望」がある、という単純な話である。
以前にも書いたが、今のケータイ小説が志向する「溺愛」は、しばしば「圧倒的な力を持つ男性が、無力な女性を完全に支配する」という構図をとる。ケータイ小説サイト最大手である「魔法のiらんど」の2017年月間1位作品ランキングを見ていくと、ヒーローは暴走族の総長(「元」含む)、俺様社長などが圧倒的に多く、ヒロインは彼らの強引すぎる愛に振り回され、それを受け入れる立場にある。
2017年5月の月間1位作品だった「監禁」(著・無自由)には、その傾向が強く表れていた。この作品のヒーローは、ヒロインを愛するあまり出会い頭にヒロインを拉致監禁、ベッドに拘束してくる。200%犯罪なのだが、ヒロインはその状況下でもだんだん彼を愛するようになり、最終的には「あなたに監禁されてよかった」というモノローグでしめられる。ちなみにこうしたシチュエーションは、「歪みLOVE」や「狂愛」といったタグが設定されている程度には支持が高い。
ついでに書いておくと、ケータイ小説サイト「野いちご」では今、「俺様&強引男子に溺愛されちゃう!!お前は俺だけ見てればいいんだよ特集」というものが行われている。ものすごくわかりやすい。わかりやすすぎる。
監禁とかはまあ過激だけども、ケータイ小説に限らず女性向けコンテンツ全体的にはよくある話とも言えるんじゃないか……という意見もあると思う。実際ハーレクイン作品でも、「大富豪に見初められ強引に愛される」系の話は金太郎飴方式で大量生産されている。性描写を多く含む女性向けライトノベルジャンルである、ティーンズラブ小説も同様だ。
しかし個人的には、ケータイ小説における「溺愛=支配」と、ハーレクイン小説におけるそれは区別したい。というのも、ヒーローとヒロインの権力の不均衡が、ケータイ小説においてはしばしば大きすぎるからだ。権力の差自体が大きいというよりも、ヒロイン側の力が極端に弱すぎる。どうしてそうなるかといえば、ケータイ小説のヒロインが「少女」、つまり子どもだからにほかならない。
ハーレクイン小説のヒロインは、基本的には「大人」である。特に現代ものの場合、年齢的には20代前半〜30歳前後までが多く、結婚歴があったり、子どもがいたりすることも珍しくない。ヒーローは大抵超ハイスペック男性で、必然的にヒロインとの社会的地位の差は大きくなるが、ヒロイン単体で見たときに「無力」ということは少ない。
一方、ケータイ小説のヒロインの多くは女子高生、女子大生だ。
今までも言及してきたように、ケータイ小説の「溺愛もの」のヒロインには、「無力な少女」が多い。学校で忌み嫌われている、親からネグレクトされている、といった設定が頻出だ。彼女たちは、守ってくれる保護者がいないこと、安心できる居場所がないことから、しばしば極端なまでに非常に低い自己肯定感を抱えて生きている。
さらにいえば、そこで居場所を得るため、あるいは守ってくれる存在がいなかったが故に愛の無い性行為(売春、レイプ)に接してしまった場合、ほぼ確実に彼女たちは「自分は汚れている」という意識も強く抱え込む。自分は汚れているという意識は、無力感や孤独感がさらに自罰的にはたらいたものである。
そこに「居場所を与えてくれる庇護者」として現れるのがヒーローなわけだが、彼らの設定がまた極端だ。たとえば誰もが恐れ憧れる関東ナンバーワン暴走族の総長だとか、あるいは日本最強のヤクザの若き組長だとか。ヒロインは、そういった権力を持つ男性に愛されることによって、「暴走族の姫」や「姐御」といった存在になり、他の有象無象の女たちに対して圧倒的優位に立つ。
なお、ケータイ小説界において、「少年」は少女ほど無力ではないため、男側の年齢はあまり「支配度」を左右しない(高校生の暴走族より成人済みのヤクザの方が格上だ、というような男性間のヒエラルキーは存在する)。
男性が「群れのボス」的存在でないタイプの作品もある。でもその場合によく見るテンプレも、「セフレ扱いされていると思ったら、実は彼に一番愛されていたのは私だった」「ドSな彼に虐げられていると思ったら、それは実は愛だった」というものである。いずれにしろ「まったく庇護されていない(と感じる)状態→庇護されている状態」への大逆転に支持が集まりやすいことにかわりはない。
私がいつも悩ましく思いながら見るのはこの部分だ。つまり、「少女」の大逆転の鍵を握るのは常に「圧倒的に強い男による支配」だ、という点。しかも、男に溺愛される前も後も、ヒロインの「無力さ」には変化がない。彼女たちは終始、脅威に抗う根本的な力――それは多分に社会的な力なのだが――を持たない存在のままなのだ。これは本当に救済なのかということを、私はこの手の作品を読むといつも考えてしまう。
たしかにヒーローがヒロインを溺愛している以上、ヒロインはヒーローの泣き所であり、精神的支配者と言えなくもないだろう。しかし、ヒーローがヒロインを切り捨てることの簡単さに比べて、その逆は圧倒的に難しい、という立場の違いを見逃すことはできない。「監禁」のヒロインに、逃げるという選択肢が与えられていなかったことが象徴的である。
なお、最近はケータイ小説ユーザーの年齢上がってきたためか、ヒロインが女子高生や女子大生ではなく成人した勤め人で、社会的立場をある程度持っている作品も増えてきた。しかしこうした「大人ラブ」と呼ばれるジャンルの小説を読んでも、私はヒロインのことを実質的には「少女」役として感じることが多い。ヒロインがヒーローに対して無力で、社会的にも精神的にも相当下手にいるという構図は、女子高生がヒロインの作品とあまり変わらないのである。
言うまでもないことだが、権力の勾配が大きい中で展開される「溺愛=支配」は、立場の弱い方にとっては完全にアンフェアだ。子どもが、親の「愛情という名の押し付け」に逆らえないのとまったく同じである。「教育的指導」の名のもとに行われる体罰も、「親愛の情を示すためのスキンシップ」と称したセクハラも、すべてはその延長上に存在する。今社会的に大きなムーブメントとなりつつある「#MeToo」の意見表明、スピークアウトの中でもその点が常に指摘され続けていることには触れておきたい。
ケータイ小説に含まれる、「なるべく考えないようにしている何か」
ケータイ小説とは、既存の少女向けコンテンツからはみ出るものを「ある程度」受け止めることができる場だ。ここでなら切り捨てられないですむ物語が少なからずある。だからこそ、その物語を求めていた女性たちにとって、ケータイ小説世界はひとつのコンフォートゾーン(居心地のいい場所)となり得る。
しかしそこでは、「少女を救うのは、圧倒的な力を持つ男性の支配である」という志向性がむき出しになってもいた。ここに、現実社会の規範の再生産という側面を見出すのはあまりにたやすい。私が、ケータイ小説には危ういところがある、と思う所以である。
むろん、フィクションはフィクションとして楽しもう、という視点は当然私も持っている。ケータイ小説における「溺愛もの」の書き手は、カップルの要望が合致しあい、「支配」がどこまでも「溺愛」として機能し続ける(ヒロインにそう感じられる)さまを描いているつもりのはずだ。だから、その創作意図やストーリーテリングを否定する気はまったくない。もっとみんなでケータイ小説のコードを作り変えていくべきだ、とも思わない。
ただ、そういうこととは別に、私はこうしたケータイ小説の世界観を、もっと大勢の人に知ってもらいたいのである。それは、単純に「創作物としてすばらしいから」でも、「道徳的に問題があるから」でもない。「こうしたコンテンツで満たされているニーズとは何か」ということを、もっと大勢で考えていけたらいいなと思うからだ。
ケータイ小説はかつて、ファン以外からはかなり激しい反発をくらったコンテンツである。私も嫌悪感をおぼえたひとりだった。でもそれは、「なるべく考えないようにしている何か」がそこに含まれていたからだと思うのである。たとえば昨今の「溺愛もの」に、「男性の支配こそが無力な女性を救う」という考え方――社会になんとなく再生産され続けてきた故に、性別問わず知らぬ間に内面化してしまっている規範がデフォルメされているように。
だからフィクションについて語ることが必要なんじゃないか、と個人的には思っているのだが、よりによってケータイ小説について延々語りたいような人間なんてあまり多くないこともまたよくわかっている。当分は一人でぶつぶつ考えを述べていく予定だ。というわけで、「ケータイ小説とはそもそも何なのか」という、最初に立てた問いへの総括は次回。