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妄想食堂「弱ってる日はピザを食べたくなる。人間をやめてても大丈夫なデリバリーの救済」

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(c)飯塚めり

 今日は一歩も外に出たくない。お腹が空いた。だけど絶対に、外に出たくない。出られない。家の中から、というより布団の中から出られない日というのはちょくちょくある。つらい。しんどい。気力が沸かない。もう無理死んじゃう。外がどんどん暗くなっていくのに、今日はまだ何もできていない。ご飯だって一食も食べていない。何か食べなければと思うけど、作る気力も出来合いのものを買いに行く体力もない。ついでに食器も流しに溜まりっぱなしだ。そういうときは、えーい、ピザ取っちゃおう、と思う。ピザは「取る」ものではなく「取っちゃう」ものだ。それは今日という日に対する降伏宣言のようで、不思議と心を晴れやかにする。

 弱ったときにピザを食べたくなるのはなぜだろう。すぐそばには身繕いをしなくても飛び込めるコンビニがある。だけどコンビニ弁当も今日は違うなと思う。べっとりした揚げ物。ぐったりした野菜。こわばった白米。食事としての体裁は整っているものの、全体的に生命力がない感じ。そこには強制された“日常”の空気が漂っていて、日常生活がうまくいっていない私の、なけなしの食欲を失わせる。

 店屋物の蕎麦や丼なんかもあるけれど、弱っているときは他人の温もりが感じられる料理を口にするのもしんどい。電話をかけるのも緊張するし、届けに来た店員さんとの間にちょっとした会話なんかも要求されるかもしれない。今日の私は人間をやめている。髪もぼさぼさ、顔も体もなんだか脂っぽくて、部屋の中も散らかり放題。だからどうか私のことは人として認識しないで、機械的に食事を提供してほしい。それにお弁当も店屋物のごはんも、一人前の分量がはっきりしている。一人の人間として食べるべき適切な量。ずっしりとした食器の重み(プラスチックの容器の方がまだ気楽だ)が、「これが今日のあなたのごはんですよ、ちゃんと作りましたよ、さあ食べてください」と囁いてくる。残せない。もっと軽薄な感じで食べられるのがいい。

 デリバリーのピザは変なポジションにいる食べ物だと思う。お米やパンと同じく主食のカテゴリーに含まれるはずなのに、日常の食事には乗っかっていない。友達同士で集まったりしたときに頼む、ちょっとした非日常の盛り上げ役という感じがする。それなのに妙に気安くて、別に全然楽しくない日でも「ちょっと来てよ」と言えば来てくれる。すっぴんでも部屋が散らかっていても気にしない。スマホで注文、クレカで決済。そっとしておいてくれてありがとう。紙の箱はかさばるけれど、重たい食器の威圧感はない。味はもちろん大味で、しかもいろいろな味が入っているやつを頼むと、だいたい境目がめちゃくちゃになっている。照り焼きとマヨじゃがが半々くらいに混じった一切れを食べると、なんだかほっとしてしまう。どこまでが一人分の量なのかが曖昧なのもいい。Mサイズは2〜3人前、Lサイズは3〜4人前。3人のときはどうするんだろう。適当すぎる。どうせ食べきれないし、残りは冷凍しておこう。明日は起きたらレンジでチンして食べるんだ、と思うと、ちょっとだけ未来に希望が持てる。

 宅配ピザの明るくて軽薄で適当なところが好きだ。「一人の人間として、まっとうな日常生活を送ること」を強制してこない。「今日はもういいよ、だって無理じゃん」と言ってくれているような気がする。日常をうまく続けることができなくなった私を、ほんの少しだけ非日常に連れ出してくれる食べ物。明るい気持ちで、今日の生活を諦めさせてくれる食べ物。

 今日はもうだめ、それでいい。日常はまた明日から。なんてったって今日は、ピザを取っちゃった日だ。

餅井アンナ

1993年生まれ。ライター。食と性、ジェンダー、生きづらさについての文章を中心に書いています。wezzyでは連載「妄想食堂」などを執筆中。マガジンtb(タバブックス)にて心身の防御力低めな往復書簡連載『へんしん不要』も。食と性のミニコミ『食に淫する』制作。

twitter:@shokuniinsuru

http://shokuniinsuru.tumblr.com/

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仕事文脈 vol.11