私たちの姐さん、マドンナ
常々、女性ミュージシャンを「姐さん」と呼ぶのはちょっとダサいことも多いと思っているのですが、世の中にはどうしても姐さんと呼びたくなる方もおられます。私の場合、それはマドンナです。たぶん、マドンナだけはどうしても姐さんと呼ばざるを得ないという方はけっこうおられると思います。
姐さんというのは、時代劇などでヤクザが女親分を呼んだり、芸者衆が先輩を呼んだりする時によく使われるような言葉です。「姉さん」はきょうだいのうち年上の女性を指す言葉ですが、「姐さん」は実際に血がつながっていない擬似家族的な集団でリーダーになる女性を指すようです。つまり、人望や才能があって、メンバーから慕われつつグループににらみを利かせ、世間的にはちょっと堅気でないような稼業もこなす女性というニュアンスでしょう。
マドンナを姐さんと呼ぶ時、私たちは無意識に妹分とか弟分のような気になっているのかもしれません。80年代からこのかた、マドンナのファッションや音楽を真似るファンやアーティストのことを「マドンナ・ワナビー」(マドンナになりたいちゃん)と言うことがありますが、たぶん円錐ブラや筋トレを真似なくても、マドンナを姐さんと呼んでしまう人はみんなマドンナ・ワナビーなのです。姐さんの才能とか押しの強さ、堅気でない感じに憧れているのです。
マドンナ姐さんのこの「堅気でない」感じはいったいどこから来るのでしょうか? 一言で言うと、セックスに関する自分の考えを型破りかつ主体的に語っているからだと思います。今回の記事では、マドンナがアーティストとしてセクシュアリティを探求していた時期について考えてみたいと思います。
自分を表現すること
常に自分のイメージを刷新し続けてきたマドンナですが、ひとつ変わらない核があるとすると、それは自分の気持ちを正直に表現すべきだという理念です。上に貼ったのは1989年の「エクスプレス・ユアセルフ」のビデオです。この曲はタイトルが示しているように、女性に「自分を表現しなさい」と呼びかける励ましの歌です。さらには恋する女性に対して「感じてることをカレに言わせるように」(“Make him express how he feels”)しなさいとも言っており、女性が主体となって男性にも自分の気持ちをはっきり言わせるよう促しています。つまり、恋愛において男性側に「察してほしい」というような甘えや、「女と話しても埒が明かない」というようなバカにした気持ちがあっては実りのある関係は築けないから、対等かつ正直にお互いを大事にする気持ちを表現することが重要だということを訴えています。
もとから大胆な表現を好んでいたマドンナですが、この曲を発表した後、90年代になると、セックスに関してよりあからさまな表現を探求しはじめます。1990年には同性間のセックスやBDSM(緊縛といった嗜虐的あるいは被虐的な性的嗜好)などを描いた「ジャスティファイ・マイ・ラヴ」のビデオがMTVから放送を拒まれます。1992年には、BDSMや同性愛、グループセックスなどを主題とする写真集『セックス』と、同様のテーマをシャープなダンスサウンドで彩ったアルバム『エロティカ』を発表しました。どちらも女性としての自らの性的ファンタジーを追究した作品です。
既に「女の子がムラムラしてはいけないの? イギリス文学における女と性欲」でも解説したことですが、女性が自らの意志で主体的に性欲を表現することは歴史的にタブーとされてきました。今からすると、『セックス』はおしゃれでアートなモノクロ写真集、『エロティカ』はキレッキレの90年代ポップで、とくに過激とは思えないでしょう。しかしながら90年代はじめにおいて、メインストリームの女性アーティストが主体的にセクシュアリティを探求した作品を作り、自分の性欲とファンタジーを男性に媚びない形で芸術に昇華させるというのは革命的なことでした。
どちらの作品も大きな議論を呼び、ネガティヴな反応を示す人もたくさんいました。誰もこういうものを見聞きしたことがなかったので、反応しづらかったというのもあるでしょう。今では評価も好意的になり、ロックの殿堂は『エロティカ』を女性による性表現の幅を広げた画期的なアルバムだと評しています。このアルバムが作られていなければ、クリスティーナ・アギレラもレディ・ガガもリアーナも今ああいうふうには活躍出来ていないでしょう。みんな姐さんの妹分なのです。
マドンナはセクシーなのか?
この時代のマドンナの作品、とくに『セックス』はポルノグラフィ的だと評されることがありました。マドンナといえばセックスシンボルですし、ライヴやミュージックビデオでオナニーやグループセックスなどを思わせる表現も用いています。しかしながら、私がいつも疑問に思っているのは、マドンナは本当にセクシーなのか、ということです。
ポルノグラフィとは通常、人を性的に興奮させることを目的として作られたコンテンツを指します。何がポルノで何がポルノでないかの境界は非常に曖昧で、またどういうものに性的興奮を感じるかは人によって大きく異なるので一概に言うことはできません。『セックス』を見たり、『エロティカ』を聞いたりすると物凄い性的興奮を覚えるという人がいてもおかしくはありません。しかしながら『セックス』や『エロティカ』には、妙にポルノ的でないところがあります。セックスがふんだんに登場するのに、人を興奮させるよりはむしろ考えさせるほうに導くようなところがあるのです。
『セックス』の序文には、こんなことが書かれています。
頭も体もリラックスしているとき、私はいちいちコンドームのことを考えたりしない。人間なら誰だってそうだろう。私の想像の世界は、私のつごうのいいようにできている。だから、エイズの心配もない。残念なことに、現実の世界はそうはいかない。コンドームは必要だし、ひとりひとりに課せられた義務でもある。あなたがこれから見たり、読んだりすることは、すべて想像の世界であり、夢であり、一種の「ごっこ」だ。でも、もし、夢の世界を実際にためすことになったら、私は間違いなくコンドームを使う。安全なセックスをするということは命を守ること。覚えていて欲しい。
この本は、夢や空想は完全に現実とは切り離されたものだという一種の諦めから始まっています。この本には悪夢のようなシュールなものからユーモアのある笑えるものまで、性的幻想を描いたいろんな文章と写真が収録され、基本的にセックスを楽しいものとして描いているとは思います。しかしながら一方で、楽しいはずのセックスによって現実世界では妊娠やHIV感染などの危険にさらされる面倒な体を抱えているということが最初に述べられているのです。
あらかじめ読者を性的興奮に誘うことを拒んでいるような序文のトーンが、『セックス』全体を支配しています。途中には、ポルノ映画はくだらないし、「人が本当に傷つけられているような映画はみる気がしない」が、美しいヌード写真は大好きだ、という文章もあり、語り手はつまらないものと美しく楽しいもの、どこに線を引けば良いのか自分でも混乱しているらしいことがわかります。
セックスについて楽しさだけではなく、困惑や割り切れない気持ちも正直に出そうというこのスタンスは、『エロティカ』にも見られます。恋人を失って楽しくないセックスや飲酒喫煙に溺れる女性を歌う「バッド・ガール」や、ゲイの友人たちをエイズで亡くした悲しみを歌う「イン・ジス・ライフ」などはそうしたスタンスがよく表れています。自信を持ってセクシュアリティを表現する精神と、混乱や苦痛をそのままさらけ出す内省が共存していることが、『エロティカ』や『セックス』が90年代の視聴者を面食らわせた一因かもしれません。型にはまらない表現だったのです。
私は実は一度もマドンナをセクシーだと思ったことはありません。マドンナがセックスを扱った作品を見聞きするといつも、わくわくウキウキするというよりは、セックスについて何か凄く真面目に考えなければならないような気分になるからです。また、マドンナが露出度の高い衣装を身につける時は別に男性の気を惹きたいのではなく、周りがドン引きしてもいいから自分が綺麗と思えるものを身につけたいのだろうなという気もしています。
いつもセックスの話をしているのに、全然セクシーじゃないかもしれないし、それでもいいんだよということを教えてくれるのがマドンナです。男性中心的な社会は、セックスについて自己表現する女性にエロ、色物、性的対象というレッテルを貼りたがりますが、マドンナはそうした型から逸脱しています。マドンナは本当にセクシーなのかはよくわからないけど、セックスを表現する第一人者であり、紛れもなくセックスシンボルです。
「私が作ったわけじゃないルールは全部破ってる」
『セックス』や『エロティカ』を作った時代のマドンナはずいぶんメディアから叩かれていました。おそらく、男性に媚びずに主体的に自らの性欲や性的幻想を表現し、セックスの楽しいところと楽しくないところ両方を探求するという型破りなスタイルが受け入れられにくかったのでしょう。ストレートにエロエロでポルノっぽかったら、もっとわかりやすいと思われていたかもしれないと思います。
そんなマドンナが1994年のアルバム『ベッドタイム・ストーリーズ』のため録音したのが「ヒューマン・ネイチュア」です。上にビデオを貼りましたが、全体的に『セックス』や『エロティカ』のBDSMモチーフを引き継ぎつつ、時々マドンナが顔芸みたいな表情をするなど、もう少しユーモアをまじえた表現になっています。歌詞もこのビデオにぴったりの自虐ギャグのような内容で、「エクスプレス・ユアセルフ」という前の作品そのままのささやきで呼びかけをする一方、「おっと、セックスの話はダメだなんて知らなかった」とか「おっと、自分が思ってることを言っちゃダメだなんて知らなかった」とか、礼儀に外れたことをして罰される自分を面白おかしく歌っています。途中で「私が作ったわけじゃないルールは全部破ってる」という歌詞がありますが、90年代初めのアメリカ合衆国では、女性がセックスについて男性に媚びない主体的な表現をするのは堅気ではないルール違反な行為だったわけです。
「ヒューマン・ネイチュア」の面白さは、語り手がとくにタブーを破ってやろうと意識せずに正直な表現をしているだけなのに、どういうわけだか知らないうちにルール違反にされているという状況を歌っているところです。語り手は「ヒューマン・ネイチュア」、つまり人間の本質だから自分はセックスその他について話さずにはいられないのだと言っており、おそらくは生きてるだけで過激な発言をしてしまうみたいな状況が想像できます。天然の反逆者であるマドンナらしい歌です。
マドンナはいつも完璧な芸術家であるわけではありません。ファンが心配になるくらいトンチンカンな言動や駄作もずいぶんあります。正直、忠実な妹分である私も、たまに「姐さん、何やってんだろ」と思うこともあります。それでも、姐さんは私たちに、自信を持って自己表現していいんだということ、その自己表現には混乱や戸惑いがあってもいいんだということ、自分の性欲について自由に表現してもいいんだということを教えてくれたと思います。
参考文献
マドンナ、スティーブン・マイゼル、『SEX by MADONNA―マドンナ写真集』中谷ハルナ訳、同朋社、1992。