昨年8月、法政大学社会学部准教授の白田秀彰さんが『性表現規制の文化史』(亜紀書房)を刊行されました。性表現、そして性表現規制の是非についてはネット上でも頻繁に議論が交わされていますが、一見すると「表現の自由を理由に規制反対を訴える側」と「規制推進派」の意見は平行線をたどっているように見えます。そんななか出版された本書は、性表現がどのように規制されるにいたったのか、歴史的に読み解いていき、性表現を規制しようという動き自体がいかに一部の人によってつくられた動きであるかが丁寧に解説されています。
しかし、著者の白田秀彰さんにお話をうかがったところ、白田さんは、開口一番「えっちの話はくだらないから、もう終わりにしたい」と口にしました。本書と「えっちの話はくだらない」という白田さんの主張はどのようにからみあうのでしょうか? 詳しくお聞きしました。
えっちの話はくだらない!?
白田:せっかく取材にいらしていただきましたが、私はもう「えっち」の話はくだらないからやめよう、と言いたいんです。
――えっ!
白田:だってこの本を書いてわかったのは、性表現規制について議論しても、千年単位でカタがつかないだろうということなんですよ。どんなに頭がいい人がどんなに誠実な人がなんだかんだといったところで、千年間ずっとけんかが続いたネタであるなら、これからも続くだろうなと思うんです。
私なりに誠意を持ってこの問題に取り組んでこの本を書きました。私のなかではカタがついたと思っているわけです。その結論は、ある意味単純でもう多くの人が指摘していた内容だと思います。それでもなお多くの人がこのネタに突っ込んでいくのを見ると、それだけ根源的かつ魅力のある話題であることも否定できないなと思います。
――『性表現規制の文化史』という本を書かれたのは、誰かに届けたいということはあったのではないでしょうか。この本は誰に向けて書こうと意識しましたか?
白田:一番の想定読者は自分です。自分がこの問題について整理し、納得して、この問題は全部おしまいにしたいという思いがありました。
二番目の想定読者は、法律家の先生方かもしれません。本格的な法律の学術書のなかに、やはり性規範とか性表現について取り上げた本があるのですが、多くの本が基本的に「えっちはだめです」からはじまっています。猥褻なものはだめだということが大前提としてあり、これを法律でどう規制するかという話になっている。それは規範や制度について考える人の態度として前提そのものを問わないのはどうなのだろうという思いがありました。
三番目は一般読者になります。一般の人に向けたメッセージとして、「えっちの話はくだらないからもうやめて、他のこと考えようよ」と言いたいんです。千年単位でけんかが続いているわけだけど、本書の第二章で書いたように、キリスト教のごく特殊な教義と上層階級の財産継承を維持するための規範を正当化するためにシステムがつくりあげられていって、立派な法律になっているだけなんです。それによって世の中の人が頭を悩ませ、苦しみ、時として逮捕されるというのはすごく馬鹿馬鹿しい。もうこの話はそろそろやめた方がいいんじゃないの、というのがこの本を書いた理由です。
――『性表現規制の文化史』の第一章で述べられていたのは、猥褻という概念は社会の上層部が自分たちが上品であるということを証明したいがためにつくられた概念だということでした。性表現の是非とは別の問題が根底にあるということがくだらないということなのでしょうか?
白田:私が最初に言った「くだらない」の意味は、生きものが性行為をするということは呼吸をしたりご飯を食べたり寝たり排せつするのと同じレベルのことなのに、これについておそろしくたくさんの人が多くの時間と努力を費やし議論しているのは、正直もったいないなと思う、ということです。
私の感覚だと、えっちに関する議論というのは、「納豆を食うべきか、食わざるべきか」について全力で議論しているように見えます。食べたい人は食べればいいし、食べたくない人に無理に食べさせる必要はないという、ただそれだけだと思うんですよ。第二次性徴がはじまったら、ほとんどの人が性欲を持ちます。その性欲を何かの方法を使えば抑制できると思う方がどうかしていると思うわけです。食欲や睡眠欲は法律では規制されていないのに、性欲に関してはかなり高齢まで法や制度を組み合わせて我慢させるなんてそんなのは無茶ですよ。そんなに社会の都合よく人間の欲望や体の機能は動きません。どう考えてもコントロールすべきところじゃないところを、コントロールしようとしているんですよ。
たとえば仮に小学生の子がえっちな雑誌を普通に購入してもいいという社会にしたとしましょう。だからといって全員が全員えっちな雑誌を読むわけではないし、かえってもっと早い段階で「悟りモード」に入るんじゃないかという気もするんです。夢とか希望とかポジティブななにかがあるから性的なものに対する憧れがあるわけですが、えっちな雑誌をみて「こういう状況か」と悟るとかえって淡白になるということもありうると思います。日本は世界に冠たるエロ大国ですけれど、実際に性行為をする割合は非常に低いですよね。
えっちの価値は下げた方がいい!
――昔日本では男性器、女性器は陽根、玉門というポジティブなイメージで呼ばれていたという第六章がすごく印象的でした。この本は猥褻という暗くじめじめしたイメージから明るいところへ引き出そうという意図があったのかなと思いました。
白田:元々日本人はそのへんに関しておおっぴらだったんだから、いまでももっとおおっぴらに語っていいんじゃないかというのはありますね。くだらないからけんかはやめろというのも、そういう意味です。ありきたりの性行為のありさまを隠すから、仕方なくエロ本やAVからかなり特殊な性的状況を描いた情報を仕入れてしまうわけで、ノルウェーの国営放送局が「ポルノではない『普通のセックス』」を放送したことが話題になっていましたが、ああいうのがもっとあってもいいと思うわけです。
――ただ「正しいセックス」みたいなものを公的な機関が規定してしまうのはこわいですよね。公に語ろうというのが、公に正しいものをつくろうというものになる危険はあります。
白田:それはそうですよね。西洋世界の歴史のなかでは「これが正しいえっちですよ」という規範が長くつづいていて、それが論争を呼んでいたわけですからね。でも日本では比較的ゆるかったんですよ。江戸時代の庶民の家屋の構造では、父母が性行為をしているのを子どもが見ないわけにはいきません。昔の庶民の感覚からすると、性生活はそんなに興味関心を引く特別なことではなく、日常の普通のことだったんだと思います。
現代は現実の性行為の前にAVとかエロ本で特殊な例を最初に見ちゃったせいで、歪んでる部分はあると思いますよ。ただそれは正しい性行為を知らないというよりは、「普通はこんなもんだよ」というえっちなことの相場観が失われているということなんだろうと思います。江戸の庶民はものごころついて第二次性徴がはじまると、だいたい性行為をしてたんですよ。いまは性行為をすることの価値が相当上がっている。性に対する欲望は、「ごはんを食べたい」という食欲と同じレベルのことだということを強く言いたいです。
――愛や恋に結びつけられて道徳的に語られることもありますよね。こだわり過ぎているという意味では処女の価値がすごく高められたり、他方では童貞がすごく蔑まれたりもします。
白田:いろんな社会システムと結合されすぎてるんですよね。僕はドリアンを食べたことがないけれど食べたいとはあまり思いません。えっちなものをそのレベルのことにできないかなと思うんですよね。童貞の問題についても、「えっちの存在は知っているけど、えっちをしたいとはとくに思わない」みたいな。そういうレベルのことにできないかなと思うんですよね。そのレベルのことが社会的、歴史的に複雑に絡みあって、ものすごく価値のある話になっちゃっているのがいやなんです。人間の基本的欲求のなかで、ここまでめんどくさい価値づけと紐づいちゃっているのはえっちの話だけですよ。
だからこの本で言いたかったのは、それほど大したことではなかった性というものが大したことになってしまった歴史を描くことによって、みんなに相対化してほしいなということなんです。何か重要な価値を持つと思われている性を相対化して、いろいろあるなかのひとつなんですよということを言いたいのかもしれないです。
***
「えっちな話」の価値は歴史的に条件づけられたものであること、それを相対化するために『性表現規制の文化史』を書いた、と自身の執筆の動機についてふり返る白田さん。後編では性表現とからめて語られることの多い暴力表現についてお話していただいています。どうぞお楽しみに。
(聞き手・構成/住本麻子)