健康はみんなの願い
みなさんは健康でいたいですか? 私は健康でいたいですし、無病息災が一番大事という方も多いと思います。たいがいの人は、痛いのや苦しいのはイヤですし、家族や友人に病気をしないで欲しいと思うのは優しい心遣いです。
時として、健康こそ美の理想だというような主張がなされることもあります。フェミニズムの文脈においても、健康で生き生きした女性のイメージが理想のように語られることがあります。しかしながらひとりひとりの市民が自分の健康を願ったり、医療制度や公衆衛生の改善のために活動したりすることと、健康な人間こそ理想であるというイメージを流通させることの間には少々、違いがあります。今回の記事では、私がフェミニズム批評、とくにアメリカ系のフェミニズム批評を読んでいてたまにひっかかる、「健康信仰」とでも言うようなものについて書いてみたいと思います。
反バックラッシュと健康志向
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ-逆襲される女たち』は1991年にアメリカで出た本で、いわゆるバックラッシュ、つまりフェミニズムに対する反動を扱っています。著名なジャーナリストであるファルーディが、ファッション、映画、広告などのメディアで流通する女性のイメージを検証し、フェミニズムは既に必要なくなったという(現在でも蔓延している)考えを厳しく批判しています。かなりよく売れ、イギリスの小説『ブリジット・ジョーンズの日記』でも言及されています。
私は大学生くらいの時に『ブリジット・ジョーンズの日記』で知ってこの本を手に取り、作られたトレンドやプロパガンダに流されず、ごまかしや怪しい主張にひとつひとつ論駁していくスタイルに感銘を受けました。しかしながらちょっとひっかかりを感じる箇所もいくつかありました。とくにここです。
昔から美しい女とは、長椅子に横たわる病弱な女性であり、応接間で紅茶をすする上流社会のレディーであり、太陽の光に弱い幼い花嫁と相場は決まっていた。(中略)それとは対照的に、女性の自立志向に理解のある時代には、スポーツ好き、健康、鮮やかな色が女性美の重要な資質とされた。(pp. 184 – 185)
この本は全体的に、体を締め付けたり、病弱そうに見せたり、子供っぽさを好むようなファッションをバックラッシュに、スポーティで簡素なファッションをフェミニズムのほうに位置付けているところがあります。
私が個人的にスポーツ嫌いだということを別にしても、ここにはなんだか妙に健康とスポーツを理想化する傾向が見られる気がしました。初めてこの本を読んだ時はまだ20歳くらいだったのですが、その頃私が憧れていたフェミニストの文人たちは、あまり健康とは言えない人が多かったのです。ヴァージニア・ウルフは自殺していますし、エミリー・ブロンテは30歳くらいで病死しています(どちらもイギリス人です)。フェミニズムというのはそうそう単純に健康だからいいとか言えるものではないのではないか、心や体に病気を抱えた人も参加するものじゃないか、というようなことが頭にありました。ただし、この頃はまだ若くて勉強不足だったので、あまりはっきり言語化はできませんでした。
世紀末の病弱崇拝、でも…
この違和感がもっとはっきりしたのは、大学院に入ってオスカー・ワイルドなどを学ぶようになり、カリフォルニア大学サンディエゴ校で教えていたブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像――世紀末幻想としての女性悪』を読んだ時です。既に一度この連載に登場していますが、『倒錯の偶像』は世紀末文化のミソジニーを批判した大著です。この本の第2章はそのものずばり「病弱崇拝、オフィーリアと愚行、死女と物神化する眠り」というタイトルで、世紀末の病弱崇拝がいかに女性を貶めるものだったかということを書いています。ダイクストラは19世紀頃の、弱く病気がちであることこそ女性らしさだと考え、女性の活動を否定する傾向をこのようにまとめています。
当時の神話においては以前にも増して、標準的な健康状態さえもが――女性の「人並み外れた」肉体的活力はいうに及ばず――危険な男性化を示す態度と結びつけて考えられ始めていたのだ。健康な女性は「不自然な」女性になりかねないと、しばしば考えられた。人間の天使がいるとすればそれは、虚弱で、無力で、病気であるというわけだった(p. 63)。
この章に入っている、『ハムレット』の登場人物で溺死するオフィーリアの表象に対する批判的分析などは、頷けるところも多いものです。16世紀のイングランドでは水の事故が非常に多く、シェイクスピアが『ハムレット』を書いた時代には溺死体の悲惨さを実際に目で見て知っていたり、家族や友人を水難で失ったような観客もけっこういたはずです。ジョン・エヴァレット・ミレイの「オフィーリア」(1852)に代表される、花々と水に囲まれて死んでいく美しい乙女というイメージは非常に19世紀的なもので、たぶん『ハムレット』初演時の観客にとってのオフィーリアの死は、生前は清らかで美しかった女性が大変恐ろしい死を遂げたというイメージだった可能性のほうが高いだろうと思います。
ミレイにかぎらず、この時期に活躍したラファエル前派の画家は病気や障害を理想化する傾向がありました。たとえばバーミンガム美術館では、ラファエル前派を中心に、盲目の少女や自殺した若者などを描いた絵画について、いかにこうした表現が実体を反映していないか解説するパネル企画などを行っています。
しかしながら、ダイクストラがオフィーリア表象に関する箇所で、世紀転換期のフランスの大女優サラ・ベルナールをとりあげているところはかなり引っかかりました。ダイクストラは、ベルナールについて「若い頃には、病弱崇拝と結核性虚弱の特徴である羸痩と末期的病状のあらゆる徴候を示し、咳き込んで血を吐くほどであり、十五歳のときには、あと数年しか生きられないと言い渡されていた」と述べ、「劇的効果を感覚的に知っていた彼女は、明らかに、若い頃に特有の病気(中略)のなかに最初の吐け口を見いだしたのだ」(p. 95)と、病弱さがその後の舞台のキャリアにつながったことを指摘しています。
このように、実際に病気がちだったが偉大なキャリアを築いた女性の生涯を、「世紀末の病弱崇拝」に結びつけるのは、ちょっと短絡的で、絵や彫刻と、生身の人間を同一視しているように聞こえるのではないでしょうか? ベルナールは生涯を通して病気や怪我に悩まされた人物で、晩年は怪我で片足を切断し、それでもなお兵士の慰問などの仕事をこなしていました。ろくに義肢も発達していない時代に椅子に乗って活動していたそうですが、このように病気や障害と付き合いつつ自分のやりたいことをやり、病弱さだろうがなんだろうが使えるものを全て自己表現につぎ込む人物は、フェミニストの尊敬を受けるにふさわしいのではと思います。健康でも完璧でもない身体を持っていても堂々としているベルナールは、私の憧れの女性のひとりです。
不健康で上等
私が健康崇拝を警戒しているのは、健康を美の理想としたり、健康でスポーティな女性のイメージこそポジティヴだと考えたりすることが、病気や障害を持った体を醜く怪物的だと思うことにつながってしまうのではないかと危惧しているからです。障害を持った人や、トランスジェンダーの人の体は、しばしば不健康で醜いものとして排除されてきました。それどころか、歴史的には月経や出産などの機能を有する女性の体じたいが汚れているとか、怪物的であるとか、完全ではないと軽蔑されてきたこともあるのです。
健康というのは多分に社会的なもので、誰が健康か、誰が健康でないかは保険のシステムとか、住んでいる地域とか、労働環境とか、さまざまな要因に影響を受けて決められます。フェミニズムはこうした、社会に要請されるデフォルト状態としての「健康」に入れてはもらえない人々が、不健康なままで参加できるものであったほうがいいし、歴史的にフェミニズムを作ってきたのはとても健康とは言えないような人たちだったということは意識していいのではないかと思います。弱い女性こそ美しいという理想を広めるのも、健康な女性こそが美しいという理想を広めるのも、私には同じコインの裏表に見えます。美しさにはいろいろあって当たり前です。不健康上等で生きていくのも大事だと思います。
参考文献
ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像-世紀末幻想としての女性悪』富士川義之他訳(パピルス、1994)。
スーザン・ファルーディ『バックラッシュ-逆襲される女たち』伊藤由紀子、加藤真樹子訳(新潮社、1994)。
ヘレン・フィールディング『ブリジット・ジョーンズの日記』亀井よし子訳(ソニーマガジンズ、2001)。