信仰とフェミニズム
前回の連載では魔女や女神信仰とフェミニズムをとりあげ、個人的に魔女は素晴らしいと思うけれども、ついていけないところがある……という話をしました。今回はその対極にあると言っていい、無神論について書いきたいと思います。無神論も女神信仰も、西洋においてキリスト教的モデルへの対抗文化としてとらえられているという点においては似たところがあり、無神論者が女神を研究している場合もあったりするのですが(大著『神話・伝承事典 失われた女神たちの復権』を編纂したバーバラ・ウォーカーは無神論者です)、思想的にはこの二つは大きく異なります。
フェミニズムはもともと、宗教を理由とする抑圧に対して極めて批判的です。とくにユダヤ教、キリスト教、イスラームなどのアブラハムの宗教は家父長制的で、女性抑圧のもとになっていると考える人は多くいます。その中には、宗教が女性に対する抑圧になるのは腐敗した宗教組織、時代背景を考えない恣意的な経典解釈、本来は教義に関係ない民俗的伝統との融合などによって信仰が堕落したからであり、改革によって抑圧的でない信仰が取り戻せると考える人もおり、そうした人たちはフェミニストとして宗派改革を目指します。
敬虔なユダヤ教徒やクリスチャン、イスラーム教徒であるフェミニストはとくに珍しいわけではありません。たとえばアメリカにはフェミニスト・モルモン・ハウスワイヴズという、モルモン教徒の主婦が中心に運営する人気のあるウェブサイトがあり、あらゆる話題をフェミニスト的観点から扱っています(日本にこういうのがあるのかどうかは寡聞にして知らないのですが、もしフェミニズム神道とかいうものがあったら笙野頼子とかになるのかもしれません)。
信仰を持ちながらフェミニズム運動をする人々は所属宗派から糾弾されやすく、活動は大変です。世俗的な人が多い日本人からすると、なぜそこまでして信仰に留まるのか不思議に思えることもあるかもしれませんが、生まれ育った宗派を離れるのは場合によっては家族や友人、そして今まで人生で培ってきたものの見方全てと決別する一大事です。信仰に見切りをつけるのではなく、自分の属する組織を改革しようとする人は尊敬に値すると思います。
一方、既存の信仰とフェミニズムは相容れないので、信仰自体を捨てた人々もたくさんいました。無神論者のフェミニストは昔から多く、19世紀にはユダヤ系のポーランド移民で、アメリカ合衆国で無神論者かつ女性参政権運動家として活動したアーネスティン・ローズがいます。これは、科学や哲学など理性に基づく思考が、女性は男性より劣っているという迷信を打ち破ってくれるはずだという期待によるものです。現在でも、ムスリムの家庭に生まれたバングラデシュ出身の作家タスリマ・ナスリンや、宗教からの自由財団を創設したゲイラー母娘など、無神論者のフェミニストはたくさんいます。
新しい無神論の男性中心的な文化
しかしながら、本当にフェミニストは無神論に期待できるのでしょうか?
21世紀に入ってから、科学的論拠に基づいて迷信や宗教に論駁する新無神論(New Atheism)と呼ばれる動きが目立つようになっています。ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンズ、神経科学者のサム・ハリス、哲学者のダニエル・デネット、進化生物学者のリチャード・ドーキンスがこの動きの「新しい無神論の四騎士」と呼ばれています。これにもう1人、ソマリアのムスリム家庭出身で無神論者となったアヤーン・ヒルシ・アリを「女性騎士」として加えることもあります。新無神論はかなり攻撃的に宗教に反論する傾向があり、ニセ科学批判とかなり重なるところがあります。全ての神を一冊で否定しようとしたドーキンスの『神は妄想である』などはその代表例です(個人的な感想ですが、神話や民俗学などを多少学んだことがある人間としては、この本は読めたものではなかったのですが)。
新無神論には多数の女性が参加しています。アヤーン・ヒルシ・アリは非常にコントロヴァーシャルな人物でフェミニストからの批判も多くありますが、女性の権利には強い関心を持っています。また、日本でも話題になった無神論バスキャンペーンの主導者アリアン・シェラインは女性です。
しかしながら、近年の英語圏における新無神論のコミュニティは、女性にとって居心地が悪いと指摘されています。というのも、理性を重視する思想であるはずなのに、新無神論には見かけほど理性的ではないところがあるのです。あまり調査もせずにイスラームを断罪する傾向などが批判されていますし、女性を軽視する文化があるとも言われています。#MeToo運動が今のように盛り上がるはるか前の2014年、バズフィードに無神論運動におけるセクハラの告発記事が掲載され、女性に対する嫌がらせを軽く見る文化が新無神論の中にあることが指摘されました(なお、ここで告発を受けた中には私が学生時代にかなり感銘を受けた『なぜ人はニセ科学を信じるのか』の著者であるマイケル・シャーマーが入っており、驚きました)。
私が注目したいのは、新無神論の思想に内在的に性差別を呼び込んでしまうようなものはないのか、ということです。理性を重視し、男性を理性の側に、女性を感情や自然の側に置く思想は長きにわたって西洋の学問を支配してきました。新無神論には、時としてこのような悪しき伝統に影響されているところが見られると思います。
たとえばサム・ハリスは2014年、『ワシントン・ポスト』のインタビューで、「批判的な姿勢というものには、いくぶん男性に固有のもの、女性より男性を惹きつけるもの」があり、無神論には「協力的でまとまりのある、エストロゲンたっぷりな雰囲気 」があまりないと述べています。エストロゲンは女性ホルモンのことです。冗談のつもりだったのでしょうが、生得的なホルモンのせいで女性には特定の思想が理解できないのだ、というような発言は、冗談にしてもいかにも性差別的、しかも科学の皮をかぶった性差別ジョークだと言えます。ハリスは自ブログでこうした批判に反論しましたが、インタビューした女性記者の能力などを批判したため、「女性はユーモアがわからない」という偏見にもとづいているとさらに批判されました。
ドーキンスも性差別的発言をしばしば批判されています。2011年に女性無神論者レベッカ・ワトソンが、エレベータで不躾なナンパを受けたことをこぼすビデオを作ったところ、ドーキンスがそれに対して、抑圧に苦しむイスラームの女性に比べればどうでもいいことに不平を言っているというような意味の諷刺的なコメントをしました。このコメントは他の無神論者からも強く批判されました。ドーキンスはその後態度を変え、2014年にフェミニストの無神論者オフィーリア・ベンソンと共同でハラスメントに反対する声明を出し、新無神論活動内での性差別に取り組む姿勢を見せました。
ところが、直後にドーキンスは上にあげたハリスに対する批判を炎上狙いの個人攻撃だと見なし、さらに性暴力の被害者がお酒を飲んでいたらその証言は信用できないと述べ、性差別的だという批判を再び受けました。2016年には、ヘイトスピーチで有名なYouTuberが、オンラインハラスメントを受けているフェミニストの女性を中傷するために作成したビデオを、ドーキンスがツイッターでリツイートし、フェミニズムを貶めるばかりか実在の人物の名誉を毀損しているとして強い批判を受けました。このため、アメリカ北東科学懐疑大会(NECSS)でのドーキンスの講演が中止になりました。
このような新無神論者たちの言動からは、自らの理性を過信する傾向が窺えるように思えます。こうした言動は果たして理性を正しく用いているのでしょうか? 他人の証言や心情についてよく考えずにバカバカしいと決めつけるのは理性なのでしょうか?
男性のほうが理性的だと考え、女性を感情的だとするのはあまり理性的な振る舞いではありません。ドーキンスの言動などについてはとくに内部批判も多く、無神論者が皆こうだというわけではもちろんありませんし、もし新無神論が過去の悪い伝統を引き継いでいるとしても、理性と努力によって克服できるはずだと思います。
しかしながら、こうした自らの理性を過信するあまり、結局は理性を軽んじるような行動をとってしまうということは、悲しいことに新無神論のみならず、科学に価値を置くコミュニティでは広く起こります。ニセ科学や、いわゆる「スピ系」のものを批判する論者が、女性は感情的で男性は理性的であるというような前提に立っていたり、人々の苦情に耳を傾けなかったり、人間をまるで部品からなる機械のように扱ったりするのは、しばしば見られることです。インチキや筋の通らないことを嫌うあまり、自らの理性を正しく使えなくなっては本末転倒です。
フェミニストは何を信じればいいのか
私は泣く泣く魔女とお別れして無神論とかニセ科学批判を支持するフェミニストになったわけですが、自分の選択が正しいはずだと思っても、心情的にはこうした男性中心的な文化は居心地が悪いと感じることがあります。しかしながら、幸せになりたいのではなく、正しくありたくてフェミニストになったのですから、それはしょうがないとも言えます。
フェミニストにとって、信仰はどの道を選んでも茨の道と言えると思います。ニューエイジ系の新しい宗教には、健康上の危険や悪質な詐欺、くだらないニセ歴史などがうようよしています。既成の信仰を改革しようとすれば、所属する宗派から攻撃を受けます。無神論者になれば、女性やフェミニズムは理性的でないと思っている偉そうな男性の無神論者から見下されます。私はこれからも無神論者であり続けるつもりですが、自分の理性を常に見直して正しく使えるよう、日々気をつけないといけないと思っています。
参考文献
バーバラ・ウォーカー『神話・伝承事典 失われた女神たちの復権』、山下主一郎他共訳、大修館書店、1988。
リチャード・ドーキンス『神は妄想である―宗教との決別』垂水雄二訳、早川書房、2007。
Christopher R. Cotter, Philip Andrew Quadrio, and Jonathan Tuckett, ed., New Atheism: Critical Perspectives and Contemporary Debates, Springer, 2017.
Ashley F. Miller, ‘The Non-Religious Patriarchy: Why Losing Religion HAS NOT Meant Losing White Male Dominance’, CrossCurrents 63 (2013): 211-226.